更新:2016-02-07 00:45:09

南楊州洪陵と裕陵[ユネスコ世界文化遺産] 남양주 홍릉과 유릉[유네스코 세계문화유산]

  • +82-31-591-7043
  • jikimi.cha.go.kr
京畿道 南楊州市 洪裕陵路 141-1

洪裕陵は洪陵と裕陵を合わせた言葉です。丘を間にはさみ、同じ圏域にあります。

洪陵
洪陵は朝鮮第26代の高宗(1852-1919、在位1863-1907)皇帝と明成皇后(1851-1895) 閔氏の陵です。
元々洪陵は明成皇后の陵としてソウル・清涼里にありましたが、高宗の死後は今の場所に移して一緒に祀られています高宗は興宣大院君・李昰應の2番目の息子で、12歳の若さで王位につきました。高宗は1897年、大韓帝国の樹立を宣布し皇帝の位につきましたが、日本の圧力が増す中、乙巳条約を結んで外交権を日本に奪われ、1919年徳寿宮にて67歳で崩御しました。明成皇后は驪城府院君・閔致禄の娘で、1866年(高宗3年)に王妃となりました。1873年、高宗の親政(王が直接国の政治を手がけること)をきっかけに政治的実権を掌握後、親露政策に不満を抱く日本人刺客に殺害されました。

裕陵
裕陵は朝鮮最後の王陵であり、最初の皇帝陵です。朝鮮第27代純宗(1874-1926, 在位期間 1907-1910)と、その妃である純明孝皇后(1872-1904)閔氏、継妃・純貞孝皇后(1894-1966)尹氏を合葬した唯一の「同封三室」の陵です。純宗は高宗と明成皇后の2番目の息子で、朝鮮最後の王です。民族主権を守護しようとした悲劇的な歴史の王でした。純明孝皇后は純宗が即位する前、皇太子として始めてオリニ大公園付近の龍馬山の麓に安葬されましたが純宗の死後、陵を移して合葬されました。純貞孝皇后は12歳の純宗の后となり、1910年、日本帝国が国権を奪おうとした際、玉璽(国家文書に使われた玉で作った王の印鑑)をスカートの中に隠したというエピソードの人物です。その後、国権は奪われ、大韓帝国は滅びてしまいます。死ぬ瞬間まで温和な性質と気品を忘れなかった純貞孝皇后は大韓帝国の最後の皇后です。

洪陵と裕陵は従来の朝鮮王陵と異なる点があります。それは朝鮮の国名を大韓帝国にかえた際、王を「皇帝」と称したほど、皇帝陵の様式に従い明・太祖の孝陵を見習って作ったことです。洪裕陵には他の王陵では見られなかったキリンやゾウ、ライオン、獅子、ヘテなど多様な動物形態の石物があります。洪陵の石物は伝統的な方法で作られており、裕陵の石物は洪陵のそれよりも事実的かつ優れた手法が見られます。

이용정보

・世界文化遺産 : O

・お問い合わせ : 洪裕陵管理所 +82-31-591-7043

・休みの日 : 月曜日休館

・利用時間 : 2~5月、9~10月 9:00~18:00
6~8月 9:00~18:30
11~1月 9:00~17:30
※チケットの販売は閉園の1時間前まで

観光コース案内

入場料

大人 1,000ウォン

交通

[鉄道]
-京春線「金谷(クムゴク)駅」(徒歩15分)

[バス]
-清涼里(チョンニャンニ)駅:一般バス(30、65)、座席バス(330-1、1330-2、1330-3)/直行バス(765、765-1、1330、1330-1、1330-4、1330-44)
-江辺(カンビョン)駅:一般バス(93、97、1115-2)
-蚕室(チャムシル)駅:座席バス(1000、1115、1200)
-タンコゲ駅:一般バス(10-5)
-吉洞:一般バス(23)
-江南(カンナム)駅:座席バス(1100)
-東大門:広域急行(M2104)

京畿道 南楊州市 洪裕陵路 141-1


周りの交通情報

  • 地下鉄G号線 クムゴク (금곡)- 666.3m

クチコミ(0)

周辺情報

思陵[ユネスコ世界文化遺産]

京畿道 > 南楊州

思陵(サルン)は朝鮮王朝時代最も悲運の女性、端宗の妃・定順王后(1440-1521)宋氏の陵です。 定順王后は1453年王妃に揀擇(多くの候補者を宮殿の中に集め、王、王子、王女の配偶者を選ぶ行事で選ばれること)され、翌年

1918m