京畿道(加平郡)

京畿道加平郡北面にある「加平ヒョナム農耕遺物博物館」は、加速化する都市化や産業化により、徐々にその姿を消している農業の文化や遺産を保存することを目的に設立されました。加平教育庁が加平北中学校の校内に設立し、誰でも気軽に訪問できるようにしています。先祖の知恵を学び、伝統文化の伝承に貢献していくことに力を入れています。


京畿道(坡州市 ) , 坡州(ヘイリ村)

京畿道坡州市積城面(チョクソンミョン)では坡州(パジュ)を代表する名山・紺岳山(カマクサン)で2018年10月27・28日両日「坡州紺岳山紅葉祭り」を開催します。 今年のお祭りは積城面住民がひとつになる美しい住民祭りとして「家族健康ウォーキング大会」「腕相撲大会」「青少年同好会公演」「チーズピザ作り」などのイベントや体験プログラムを行います。


慶尚南道(南海郡 )

李舜臣(イ・スンシン)将軍を祀る南海(ナメ)忠烈祠(チュンニョルサ)。ここ南海忠烈祠には、李舜臣(イ・スンシン)将軍が殉国後、およそ三か月の間、遺体が安置された仮墓がいまだ残っているのが大きな特徴の祠堂です。 1598年11月19日にこの世を去った忠武公(チュンムゴン)李舜臣将軍の遺体は、忠烈祠のある場所に仮安置され、約3か月後の1599年2月11日には全羅南道の古今島(コグムド)を経て、少年期を過ごしたこともある母方の故郷・京畿道(キョンギド)牙山(アサン)の忠烈祠に移葬されました。 ここ南海忠烈祠の歴史は、李舜臣将軍がこの世を去った34年が過ぎた1633年に一間の草舎を建立し祭祀を行ったことから始まります。 * 聖雄・忠武公李舜臣将軍の仮墓 聖雄・忠武公李舜臣将軍は、三道水軍統制使として壬辰倭乱(日本で言う「文禄・慶長の役」)の露梁海戦に参戦、しかし1958年11月19日ここ慶尚南道海南郡の観音浦(クァヌムポ)沖で殉国してしまいます。 忠武公の遺体は観音浦に運ばれ、古今島を経て牙山忠烈祠へ改葬される前までの3か月間現在のここ南海忠烈祠の場所に仮安置されました。その仮墓が現在でも南海忠烈祠に残っています。 * 忠武公碑・忠愍公碑 南海忠烈祠は規模が統営(トンヨン)忠烈祠などと比べ大変小さいものですが、1973年6月11日、史跡第233号に指定され保護されています。朝鮮時代の文臣で学者であった尤庵(ウアム)宋時烈(ソン・シヨル)が建立し、文臣で学者・書芸家であった宋浚吉(ソン・ジュンギル)が揮毫した李忠武公墓碑と祠宇(サウ・祠堂)、そして忠武公碑と忠愍公碑(チュンミンゴンビ)、内三門、外三門があり、また清海楼(チョンヘル)や将軍の仮墓もよい状態で残されています。 * 亀甲船 南海大橋を渡り、桜のトンネルを抜け露梁村(ノリャンマウル)へ下っていくと、忠武公李舜臣が観音浦で戦死した後、遺体を仮安置した場所・忠烈祠とその前の海に浮かんでいる実物大の亀甲船(コブクソン)が目に入ってきます。忠烈祠前の露梁の海に浮かぶ亀甲船は、およそ20年前、イ・ヒスン氏など学者の考証により、本来の大きさで復元されました。 この亀甲船は元々、鎮海(チネ)士官学校にありましたが、1999年12月ここ南海へ持ってきました。亀甲船内には天字銃筒(チョンジャチョントン)、地字銃筒(チジャチョントン)、玄字銃筒(ヒョンジャチョントン)など様々な武器や当時の姿を再現した模型があり、歴史を体験できる場としても大いにその役割を果たしている施設です。


仁川(中区) , 仁川市街地

清日租界地境界階段 韓国を代表する仁川旅行を計画しているなら、清日租界地境界階段は必見の観光地です。この階段は、仁川広域市中区前洞に位置し、1884年に設置された清国租界と日本租界の境界を示す歴史的な場所です。2002年12月23日には、仁川広域市の記念物第51号に指定されました。 この場所は、1883年に日本租界が、1884年に清国租界が設定され、自由公園(旧万国公園)に繋がる階段と美しい造園が整備されています。約120年の歴史をそのままに、中央に位置する石造りの階段を境にして、左側が清租界、右側が日本租界に分かれています。階段の両側には、それぞれの国の建築様式がはっきりと見て取れる建物が立ち並び、異国情緒あふれる風景が広がっています。 この階段は、中央の石造りの階段が特徴的で、急な斜面に対応するために階段途中に休憩スペースが設けられており、仁川港の美しい景観を楽しむことができます。自由公園の南西側の急な坂に位置しているため、階段を中心に左右に分かれる異なる建築様式が、当時の歴史を物語っています。 この清日租界地境界階段は、単なる階段以上の価値を持ち、歴史的および場所的に重要な意味を持つ場所です。仁川を訪れる際には、自由公園とともにこの歴史的な場所を巡り、韓国と日本、中国の歴史を感じることをお勧めします。


江原道(三陟市)

桃京里駅は日帝強占期に建設された典型的な小さな駅です。 駅舎は鉄道の線路と並行に建てられその上に屋根が取り付けられていますが、駅前広場のある駅舎入口正面側から見ると駅舎の右寄りの場所に桃京里駅の出入口がありその上部に建物と直交する形で切妻屋根が取り付けられています。 駅舎の屋根と出入口の上の直交した切妻屋根はほぼ同じ高さに取り付けられています。駅舎出入口の右外側には雨よけのひさしが取り付けられ、駅舎を囲むように線路側の方へひさしが乗降客用に延び、その端にプラットホームで列車を乗降する人が出入りする待合室出入口の両開きのガラス戸が設置されています。 外壁は現在はモルタル造であることが確認できますが、竣工当時、元々モルタルであったのかどうかは不明です。 また駅舎の屋根に使用されている屋根瓦は日本様式のものそのものです。 駅舎の線路側の方もさまざまな特徴があります。 駅前広場側の入口同様、線路側の方にも駅舎のメインの屋根と直交する形で切妻屋根が作られている部分があり、その部分は駅舎の建物から線路側に少し張り出す形で作られ駅を行き交う列車がよく見えるよう駅務室が設置されています。また雨よけのひさしは駅舎右側からぐるっと線路側のこの駅務室の横まで続いています。 この駅の特徴的なのは、建物のメインの屋根と直交する広場側の入口上の切妻屋根が建物右側に、同じように建物のメインの屋根と直交する線路側に突出した駅務室がある上部の切妻屋根が建物やや左側にあるというように、切妻屋根がメインの建物に対して十字の形で直交して作られる他の駅とは違う構造となっている点です。 ※竣工年度 1939年5月15日


江原道(束草市)

江原道・束草市・雪岳洞に位置しています。雪岳山の絶景のみならず、東海の広々とした海も見渡せる場所にあり、雪岳ウォーターピアでの水遊び、尺山温泉での温泉浴も楽しめます。また、近くには大浦港、東明港があり、新鮮な海鮮物を楽しむことができます。


忠清北道(永同郡 )

深川(シムチョン)駅はKORAIL京釜線(キョンブソン)にある駅で、1905年1月1日に開業しました。 1920年には駅舎が新築されましたが、時代の流れは馬車から汽車へとシフトし、これに伴い鉄道も輸送力増強のため、深川駅付近の区間も複線化工事を実施、1934年に駅舎が移転し新築されたのが現在の深川駅の駅舎です。 深川駅駅舎は建築面積148.86平方メートルの一文字型の木造平屋の建物となっています。 切妻屋根の正面の待合室入口は、正面であることを強調した造りで、建物の線路側の出入口には雨よけの屋根を取り付け、立体感を引き立てた造りとなっています。 深川駅は地元・忠清北道(チュンチョンプクド)を代表する鉄道駅で、ソウルと釜山(プサン)を結ぶ京釜線(キョンブソン)の駅舎の中でも建築当時の原型を留めている駅舎の一つに数えられています。 駅の後ろには小高い山があり、正面には錦江(クムガン)が流れ、景色が大変素晴らしいところです。 近くには錦江の川縁にある陽山八景(ヤンサンパルギョン)があるほか、蘭渓(ナンゲ)国楽博物館、蘭渓国楽器制作村、蘭渓祠堂など国楽に関連する施設も数多くあります。  


慶尚南道(統営市 )

統営(トンヨン)の夜は格別です。 華やかでありながら、温かな雰囲気を醸し出すライトアップが夜の統営運河を彩ります。 夜景ツアーのハイライト・統営大橋は、鮮やかなライトアップの光に包まれ、昼間よりも一層眩しく輝いています。 夜が美しい都市、統営、そして夜の海。 その統営を海上観光タクシーの乗ってゆったりと遊覧。浪漫あふれる統営で夜景の美しいナイトクルーズをご満喫ください。


慶尚北道(安東市 )

晩休亭(マニュジョン)は朝鮮時代の文臣・宝白堂(ポベクタン)金係行(キム・ゲヘン)公の亭子(東屋)で、1500(燕山君6)年に建立されました。 現在の建物は重修したため建立当初の姿からは変わってしまっていますが、重修後の朝鮮時代後期の様式を彷彿とさせる造りとなっています。 金係行は朝鮮時代初期の文臣としてさまざまな官職を歴任した人物でした。しかし、朝鮮時代第10代の王・燕山君(ヨンサングン=在位1494~1506年)の暴政に嫌気が差し、官職を捨て故郷へと落郷しました。故郷に帰ると、ソルモッの池(現在の慶尚北道安東市豊山面素山2里にある素山池=ソサンジ)の畔に小さな亭子を一度建てましたが、真横に道があったことから、より静かな場所を求め、この亭子を現在の場所に建てたといいます。 安東市吉安面(キランミョン)にある黙渓書院(モッケソウォン)の川向こうの山あいの、滝のある雄壮な渓谷の谷澗水が盤石の上を流れる絶景の場所に、この晩休亭が南東の方向に向いて建てられています。 * 朝鮮時代の品位が感じられる晩休亭の構造 * 晩休亭の構造を見てみると、 軒先の垂木が一段のみとなっている入母屋屋根となっており、屋根左右の軒先の曲線が鋭く反り返り、亭子の趣をより一層感じられる構造となっています。 晩休亭の建物の大きさは正面3間、側面2間となっています。 正面は柱と柱の間の3間すべて開放することができ、建物正面の風景を楽しめるような作りの高殿の板の間がある亭子となっています。また楼閣の周囲の三方は縁側となっており鷄子閣欄干という欄干を配しています。建物の後は板の間となっており、周囲の縁側を通じて正面の板の間とつながる構造となっています。 また後壁にある戸の下の部分には穹板(クンパン)という板がやや高めにはめられているのもこの建物の特徴です。 亭子の左右にある部屋はオンドル部屋となっており、部屋の正面部分の戸は一般的な両開きの戸が取り付けられていますが、部屋の後ろ側の方の戸は格子模様の三分割の上開きの戸が取り付けてあります。 建物正面をすべて開放できるようにし周囲を縁側にする亭子の構造は稀で、他には同じ安東・吉安面にある薬渓亭(ヤッケジョン)が似た構造となっている程度です。 柱には蓮の蕾の装飾を施した二翼工様式の牛の舌のような形をした飾り板が突出し、この様式から朝鮮時代後期に取り付けられたものと思われますが、朝鮮時代末期の派手な様式とは異なり品位を保つ作りとなっています。 柱貫の上部には蓮の花を施した華盤を設け、趣向を凝らした造りとなっています。 屋根の部分は5本の桁を渡して作った五梁家(オリャンガ)造りとなっており、大梁の上に束柱を立て、棟と梁を乗せ、その上に梯形(台形)の束板を取り付けています。 [文化財情報] 分類:楼(亭)閣 指定:慶尚北道文化財資料第173号 指定日:1986年12月11日 時代:朝鮮時代


全羅南道(潭陽郡 )

潭陽(タミャン)湿地は、栄山江(ヨンサンガン)の生態観察の最前線の場所で、自然の力による浄化が行われている代表的な場所でもあります。 また、潭陽湿地には生息している生物の種類が大変多く、河川湿地としては唯一、湿地保護地域に指定(2004年7月)にされているところでもあります。絶滅の危機に瀕しているタカやヤマネコ、ジムグリガエル、天然記念物のハヤブサ科のチョウゲンボウまで滅多に観察することができない動植物が生息しています。