慶尚北道(慶州市 )

韓国のピラミッド・大陵苑(テヌンウォン)大陵苑は新羅王朝の王や貴族の大規模な古墳群。広さ12万坪の敷地に23基の古墳が集まっていますが、目に見えない地下の古墳まで合わせるとその数は200基に上るとされています。これらの中で最も有名なのは天馬塚と皇南大塚です。天馬塚(チョンマチョン) という名前は1970年代に発掘された時に天に登る馬の姿が描かれた絵が見つかったため付けられたもの。1500年前古新羅時代唯一の絵画として大変貴重なもので、大陵苑の中で唯一内部を公開しています。内部には11,526点の文化財と王冠が復元されており古代の王の華やかな生活の様子を窺い知ることが出来ます。またもうひとつの見所は大陵苑で一番大きな古墳の黄南大塚。夫婦陵で天馬塚より多い三万点の遺物が発見されていて、この黄南大塚により新羅時代の女性の地位がどれほど高かったものかを知ることが出来たと言われています。ここでは、新羅文化の華やかさを直接肌で感じることができます。


慶尚北道(慶州市 )

「慶州東宮と月池」は新羅の王宮の別宮跡です。他の付属建物とともに王子が居住する場所として使用され、国の慶事があるときや貴賓をもてなすときにここで宴会を行ったといわれています。新羅の敬順(キョンスン)王が甄萱(キョンフォン)に侵入された際、931年に高麗の王建(ワンゴン)を招いて危機を訴え、宴を催したところでもあります。新羅は三国を統一後、674年に臨海殿(イムヘジョン)辺りに大きな池を掘り、池に島や山を造って植物を植え、珍しい鳥や動物を飼っていたと伝えられています。高麗時代の『三国史記』には臨海殿のみが記録されており、月池については言及されていません。朝鮮時代の『東国輿地勝覧』に「雁鴨池の西には臨海殿がある」と記録されており、現在の位置を月池と推定しています。臨海殿址(イムヘジョント)の池の周辺では、1975年に浚渫を兼ねた発掘調査で回廊址(ファランジ)を始めとした26の建物跡が確認されました。臨海殿と推定されるところを含めた3つの新羅の建物跡と月池を1980年に復元し、今日に至っています。ここで出土した多くの遺物の中で、宝相華(ポサンファ)の模様が刻まれたレンガには「調露2年(680年)」という文字が刻まれており、臨海殿が文武(ムンム)王のときに作られたことを裏付けています。平鉢や皿も多く出土し、新羅の墓から出土するものとは異なるため、実際の生活で使用されていたものとみられています。臨海殿は別宮に属する建物ですが、その比重は大変大きかったものとみられています。月池は新羅の苑池を代表する遺跡で、池は湾曲した形をしています。これは狭い池を広く感じさせるように工夫されたもので、新羅の人々の知恵が感じられます。※文化財庁では2011年に史跡第18号の「慶州雁鴨池(キョンジュ・アナプチ)と臨海殿址(イムヘジョント)」を「慶州東宮(キョンジュ・トングン)と月池(ウォルジ)」に名称変更しました。臨海殿は東宮に属するひとつの建物であったため、全体を表す東宮に変更。また、雁鴨池は朝鮮時代に付けられた名称でしたが、出土した遺物より、新羅時代には月池と呼ばれていたことが確認されました。


慶尚北道(慶州市 )

瞻星台(チョムソンデ)は東洋で現存する最も古い天文台です。 新羅 27代善德女王(A.D632-646)の時に作られた天文台で、空に現れる日を観測して星の位置を知るために作られました。直線と曲線が調和している石造建築物で1962年12月20日に国宝第31号に指定されました。 瞻星台の形は円筒形で大きさ30センチの石362個を27段重ねて作られました。下から4.16メートルになる地点に一辺が1メートル四方の出入口がありその下に梯子をかけた跡が残っています。内部は12段まで土に埋まっており19段、20段と25段、26段の2箇所に内部で「井」の字の形をした長い石がかかっており、その両側が外に突き出ています。 全体の高さは9.17メートルで、下の石の一辺の長さが5.35メートルになっています。春分、秋分、冬至、夏至等の24節気を星を通して測定し井字石を東西南北の方位をさす基準にしたものと推測されます。 瞻星台を作る時に362個の石が使われましたが、これは1年を陰曆で計算してでる日数を象徴しています。


慶尚北道(慶州市 )

月城良洞村(ウォルサンヤンドン・マウル)は雪蒼山(ソルチャンサン)を主峰とし、稜線と渓谷が広がる姿は漢字の“勿”に似ています。この村は朝鮮時代(1392-1910)に驪江李氏と月城孫氏によってつくられた両班村(貴族の村)で、朝鮮時代の性理学者である李彦迪(イ・オンチョク/1491-1553)をはじめとする数多くの著名人を輩出しています。村には家屋およそ150棟が保存されていますが、瓦屋根の家屋は大部分は高いところにあり、茅葺の家はほとんどが平地にあります。また重要文化財3点、重要民俗資料12点、慶尚北道有形文化財3点などが保存されています。韓国国内には6つの民俗村がありますが、規模、保存状態、文化財の面において月城良洞村はその価値が高く評価されています。1984年12月24日には村全体が重要民俗資料第189号の指定を受けました。<代表的な家屋>香檀 丘の上にあるうえ、屋根の構造が華麗なため村で一番目を引く香檀は李彦迪が慶尚監司(朝鮮時代の官職のひとつ)であった時、母の看病をするようにと王であった中宗が建て与えたものです。もともとは99の部屋に仕切られていたと伝えられていますが、一部消失し現在は50あまりの部屋が保存されています。ここから月城良洞村全体を眺めることができます。宝物第412号。無忝堂 驪江李氏の本家である無忝堂は質素ながらも洗練された建築日が目を引く家屋です。別堂(離れ)として応接、読書、休息などに利用されました。ハングルのカの字型の構造をしており、オンドル部屋、大広間、板の間などがあり、丸い柱と四角い柱がともに使われていることが特徴です。宝物第411号に指定されています。観稼亭 観稼亭は文臣であった孫仲暾(1506-1529)が暮らした家で、格式をもたせながらも質素に建てられており、敷地の中央には庭があります。男性の主人の生活の場であり、また客をもてなしたサランチェという建物と、女主人の生活の場であったアンチェという建物などが“ロ”の字型に配置されています。観稼亭という名には穀物が成長するように子孫が繁栄する様子を見たいという意味が込められています。宝物第442号に指定されています。講学堂 1870年に建てられた書堂です。書堂とは現在の学校にあたります。全体として素朴な印象の講学堂はハングルのカの字型の建物で、大広間、アンバン(主婦部屋)、コンノンバン(主婦部屋と向き合った部屋)などがありますが、門や塀は見られません。大広間の上には“講学堂”と書かれた額がかかっています。ここからは丘の上にある香檀がよく見えます。


慶尚北道(慶州市 )

慶州普門観光団地は慶州市にある国際的な観光団地です。慶州市内から東に約6kmの距離にある普門湖を中心とし、約1,033 haにかけて作られた観光団地で、全地域が温泉地区及び観光特区に指定されています。ここは、1979年4月にオープンした総合観光休養地として、団地の入り口には 高さ12mにもなる人工滝が流れています。 また水車もあり、徳洞湖から流れてくる水を利用し、自然の水圧で回っています。普門観光団地の中には国際会議場、観光センター、ゴルフ場、総合商店街、観光ホテルなどがあり、伝統的な韓国の建築樣式に合わせてデザインされています。その他、遊覧船の船着場やユクブ村、ソンジェ美術館、普門野外公演場、自動車劇場、慶州ワールドなどの娯楽施設もあります。普門野外公演場では毎年4月から1月まで、韓国の伝統国楽公演を無料で観覧することができます。また、普門団地にある温泉からは約35.5度の温泉(非加熱)が湧き出ており、温泉も楽しむことができます。湖に沿って長く広がる散策路は4月になると、桜で団地の中がピンク色に染まります。そよ風に揺られて舞い落ちるピンク色の桜雪は、見る人を思わず微笑ませる魔法使いです。


慶尚北道(慶州市 )

新羅(BC 57-935年)をテーマにしたさまざまな公演や新羅時代の貴族村、ガイドの方が聞かせてくれる面白い新羅話、工芸体験などを楽しむことができます。特に、ミレニアムパーク内に慶州地域初のドラマ「善徳女王」の野外オープンセット場を造成し、慶州を訪れる観光客に新しい見どころを提供しています。この他にもドラマ「花より男子」で、ユン・ジフの家として登場した「羅宮」という韓屋ホテルもあります。客室の等級に従いスイート韓屋やロイヤルスイート韓屋からなり、韓屋に足を踏み入れると庭や独立した露天風呂などがあり、観光客に観覧後、また違った楽しさと安らぎを与えてくれます。


慶尚北道(慶州市 )

国立慶州博物館(クンニプ・キョンジュバンムルグァン)は約90年の歴史を誇る博物館。新羅(BC57-AD935)の首都であった古都・慶州の文化遺産を見ることができる博物館として、規模、質共に慶州に来たら必ず訪れる観光コースになっています。展示室は本館と第1・2別館、野外展示場の四つに分けられ、本館ではさまざまな土器や美術工芸品を見ることができます。また菊隱記念室には李養璿博士が収集品保護のために寄贈した文化財666点が展示されています。第1別館である考古館には慶州市内の所々に残っている巨大な墓から発掘された遺物が展示されており、金冠や冠飾り、帯、耳飾りなどの金装身具などが見所。これらの文化財を通して新羅時代の優れた芸術性を確認することができるでしょう。また第2別館である雁鴨池館では雁鴨池から発掘された3万点余りの文化財の中でも代表的なものを見学できますが、他の展示館の物が王族の墓から出土した作品であるのとは違い、ここにある遺物は生活用品となっており、新羅時代の宮中生活の様子を知ることができるようになっています。また野外展示場には韓国の代表的な梵鐘である聖德大王神鐘があるほか、慶州地域の寺・宮闕の跡などから移された各種石遺物も展示されています。


慶尚北道(聞慶市 )

聞慶(ムンギョン)セジェ道立公園は鳥も飛んで越えるのが難しい険しい山にある三つの関門がある公園です。鳥嶺山を越える聞慶セジェは昔から韓国で最も高く険しい峠でした。聞慶セジェは朝鮮(1392~1910)太宗(在位 1400∼1418)の時に開拓された道で1925年新しい道路が梨花嶺峠に通じるまで利用されました。このセジェに城壁と関門を作ったのは壬辰倭乱(1592年と1598年)以後です。1594年に第2関門である鳥谷関を設け, 1708年に主屹関と鳥嶺関を設け国防の要塞としました。この関門はそれ以降毁損しましたが1966年 第1、2、3関門と城壁が事蹟第147号に指定され1976年に復元されました。嶺南の第1関門である主屹関から大路に沿って1.5km程のぼると 鳥嶺院に着きます。院といいうのは 出張官吏に宿食を提供するために駅と駅の間に設置した旅館のようなもので現在は 石垣だけが残っています。1983年 復元された酒幕を過ぎると第2関門である鳥谷関に着きます。鳥谷関を中心としてこの一帶は斧折れの自生地として有名で 聞慶セジェ民謠碑が左側の道に建てられています。主屹関から鳥谷関までは3km。鳥谷関から鳥嶺関まで3.4kmに達する散策路には所々に岩と涼しげに流れる溪谷が調和をなしています。大路ではない水の音が聞こえる道に沿ってのぼると滝がでてきて更に 30分程のぼると惠国寺に着きます。惠国寺は主屹山の麓にある寺刹で恭愍王(在位 1351∼1374)が紅巾賊の乱(農民反乱)を避け留まった所です。 惠国寺 を過ぎ宮殿の跡を経て1km程のぼると主屹山霊峰に着きます。山の頂上から見下ろすと曲がりくねって広がる山脈が壮観な眺めです。このような 山の頂上から溪谷を過ぎると鳥谷関に着きます。聞慶 の3関門を抱く主屹山 (1,106m)は 主屹関から鳥谷関まで4~5時間程度かかり、この一帯は1981年に道立公園に指定されました。聞慶セジェ道立公園にあるKBSドラマ撮影場は時代劇専用セットとしては世界最高を誇っています。高麗時代の三つの宮殿と民家 等が6万㎡の敷地に作られています。


慶尚北道(慶州市 )

慶州から奉吉里(ボンキルリ)海水浴場行きのバスに乗って50分ほど行くと東海が見えてきますが、その青い水面の先に小さな奇岩が見えてきます。これが新羅・高句麗を統一した新羅(BC 57~AD 935)の第30代の王である文武大王(AD661-681)の水中陵(ムンムダウァンスジュヌン)。他に例を見ないこの水中陵は文武大王の遺言によって作られたもので、大王は亡くなってから海の龍となり国を無事を守る存在と考えられており、王室は王の死後慶州からほど近い距離にあるこの地を選びこの岩島に大王を葬ったとされています。周囲が200メートルの岩の中心東西南北に水路を造って小さな穴を掘り、深さ3.6m、幅2.85m、厚さ0.9mの大きい石を水中2mの深さの位置に置きその下に遺骨を奉ったといわれていますが、火葬にして灰をまいたという学者もいて説が分かれ議論が続いています。またこの文武大王水中陵近くの感応寺跡までは龍になった王が感応寺で体を休めるようにと小さな水路があったと言われており、その痕跡を見ることもできます。


慶尚北道(慶州市 )

谷川のふちの岩の上に位置する鮑石亭(ポソクジョン-面積 7,432㎡)は1963年1月21日に史跡第1号に指定されました。新羅(57B.C.~A.D.935)時代に別宮があった場所で、今では、アワビの形をした石造水路だけが残されています。石溝の形をした曲がりくねったアワビの貝殻に似ていることから、鮑石亭と名付けられました。 鮑石亭は63個の石材で組立られており、大きさは幅35cm、深さ平均26cm、長さが10mほどになります。南山溪谷から流れる水を鮑石亭に引いて石の亀を通して流れるようにしたと記録にはありますが 現在は残っていません。新羅の王がよく君臣や貴族を率いて遊びに来た場所で、石溝に沿って流れる水に杯を浮かべ、その杯が自分の前に来る前に詩を作りながら過ごした場所として知られています。鮑石亭横の南山の鮑石溪谷は、澄んだ渓谷水が流れており、新羅時代から景観の美しい場所として人々に愛されてきました。現在も樹齢数百年になるケヤキや松、竹林が立ち並ぶ壮麗な景色が広がります。