全羅南道(宝城郡 )

「緑茶」と言えば「宝城」、「宝城」と言えば「緑茶」が思い浮かぶ全国最大の茶畑を誇る宝城は、全国の緑茶栽培面積の34%、生産量37%を占めています。1,097の農家でお茶を栽培していて、お茶の加工業者は約90ヶ所にも及びます。2002年には宝城のお茶が韓国で最初に地理的表示制の第1号に登録されました。韓国お茶博物館は百済時代から伝えられた宝城のお茶の歴史を明らかにして正しいお茶の文化を確立し、持続的な宝城のお茶ブランドの価値を向上させるための努力に力を入れて建てました。博物館は3階建てで各階ごとに特徴があります。1階にあるお茶の文化室はグラフィックパネルと映像、ジオラマを通してお茶の栽培から生産までの過程を展示しており、2階のお茶の歴史室はお茶の歴史を一目で見ることができる時代別のお茶の道具が展示してあります。3階のお茶の生活室は教育および体験空間で韓国、中国、日本、ヨーロッパのお茶の文化を体験することができ、世界のお茶の道具が展示してあります。この他にもお茶の製造工房では初摘みのお茶の葉を使用した緑茶などいろいろなお茶を作ることができる施設も備えられていてお茶に関する理論や教育、体験まで多様な経験をすることができます。


全羅南道(順天市 )

順天湾は広々とした干潟と葦畑が美しい自然の宝庫です。春には渡り鳥の飛翔と、夏にはムツゴロウと干潟を、秋には七面鳥と葦を、冬にはナベツルをはじめとした約200種の渡り鳥に出会える韓国の代表的な生態観光地です。 春夏秋冬いつでも新鮮な魅力を感じることができる場所、韓国で最高の短編小説「無所紀行」の舞台になった場所、2006年1月20日に沿岸湿地として最初にラムサール協約に登録されたこの場所には順天湾で自然と人間が調和した美しいお祭りです。葦がさらさらと揺れている様子や渡り鳥が干潟の上を群れになって飛んでいく姿を近くでみることができる船上ツアー、全国10大秘境の中のひとつである順天湾を一望できる展望台など見所がたくさんあります。


全羅南道(麗水市 )

麗水市三日洞と上岩洞にまたがり位置した霊鷲山は、海抜510mとあまり高くない山です。山の姿が秀麗であるわけでもなく、山が高いわけでもない霊鷲山が全国的に有名な理由は、春になると山全体を赤く染めるチンダルレ(ツツジ)を韓国国内で一番最初に見ることができる山だからです。慶尚南道昌寧の火旺山、慶尚南道馬山の舞鶴山と共に全国三大ツツジ群落地のうちの1つに数えられています。30~40年間咲き続ける数万本のツツジが33万㎡にわたり群落をなしており、毎年4月になると山全体を赤く染めます。 霊鷲山の登山は山が低いだけあり、どのコースを行っても4時間程度で家族皆で登山を楽しむことが可能です。ツツジを最も楽しむことができるコースは、湖南精油の上の林道や上岩小学校を基点にし、450m峰を登り霊鷲山の頂上に上がりポンウ峠を下った後、チンレ峰をまた登ります。チンレ峰からヘリコプター場、439m峰を過ぎたところにある分かれ道を右へ入って行き、興国寺へと下山するコースです。450m峰から頂上までがツツジが最も見ごたえのある道ですが、険しくもあるため暗い時にここを通るのは危険ですので登山時間を調節する必要があります。 霊鷲山では毎年4月になるとツツジ祭りが開催されます。祭りの期間中、霊鷲山山神祭、青少年白日場、写真撮影大会、チンダルレアガシ(ミス ツツジ)選抜大会、郷土料理など多彩なイベントが催されます。 霊鷲山という名前は、釈迦が最後に説法をしたインドの霊鷲山からその名をとったと推測されます。霊鷲山の登山地図を見ると、霊鷲山と進礼山に区分されて書かれている場合もありますが、国家地理情報院は2003年5月17日付けで山の名称を「霊鷲山」から「進礼山」に変更告示しましたが、人々は今も慣例的に439m峰の名前である霊鷲山を山の名前として使用しています。 麗水半島の主山である霊鷲山は、昔より地域の人々に神霊な山として認識され、祈雨祭や神仏に真心を捧げてきた場所です。伝統祈願道場であった錦城台があり、その下の道場である兜率庵が建てられ今日まで残されています。東国輿地勝覧と湖南麗水邑誌には兜率庵と共に祈雨壇があり霊験あらたかであると記録されており、地方の首領らが祈雨祭を行ない祈雨詩を残すという伝統が大韓帝国末まで引き継がれていたとされています。また、霊鷲山には興国寺があり、寺の名前からも分かるとおり国の隆盛を祈願するために建てられた寺院で、1195年に普照国師が創建しました。興国寺の中には大雄殿(宝物第369号)をはじめとし、宝物第578号の大雄殿後佛幀画、円通殿、捌相殿などの文化財が残されています。また興国寺は壬辰倭乱当時、唯一僧兵水軍がおり興国寺内には約300人の僧兵水軍が訓練をしていたということでも有名です。 海抜510mの山の頂上に立つと南海に浮かぶ大小の島々と漁船が一望でき、光陽湾と麗川公団、東北側には光陽の白雲山、猫島が見えます。


全羅南道(麗水市 )

突山島を観光するためにまず通る突山大橋は、1984年に麗水市の南山洞と突山邑の右斗里をつなぐ長さ450m、広さ11.7mの往復2車線の橋として建てられ、突山島を観光地にする開発が始まりました。国内最大の斜張橋として周辺の美しい海洋風景、特に大橋から見る麗水港の夜景は幻想的です。橋の麗水側には八角亭として彩られている展望台があり、絵のように美しい麗水港を見下ろせます。 突山大橋を渡るとすぐ下に刺身の店が集まる村や遊覧船の船着場がありますが、ここでは昔の姿そのままを再現した亀甲船の模型や梧桐島に向かう遊覧船や突山島の先にある日向庵を回る観光遊覧船が観光客を待ち受けています。 2000年10月に突山大橋、突山大橋の竣工塔、鎮南館や将軍島とその正面の海洋公園に夜間イルミネーションが設置され、夜に地域の人々や観光客へ素敵な思い出と情緒を伝える突山大橋の美しくてダイナミックなイルミネーションを見ながら日常生活から脱出できる麗水の象徴的な観光名所です。総8つのプログラムで構成され、約50もの演出が可能です。


全羅南道(長興郡 )

天冠山道立公園は全羅南道の長興郡、冠山邑と大德邑の境にある天冠山(723m)を中心に広がっており空を突くようにそびえ立つ奇岩怪石と素晴らしい自然風景により1998年に指定された道立公園です。天冠山は智異山、內藏山、月出山、內辺山とともに湖南の5大名山に選ばれています。山全体が岩に覆われており変わった形をした岩や峰々が並んでそびえ立ち、まるで天使の冠のように見えることから天冠山といいます。山の頂上からは南海の多島海が目の前に広がり、北には月出山と光州の無等山はもちろん、天気の良い時には済州道の漢拏山まで見ることができます。また、頂上付近には広々としたススキ畑が広がっており毎年秋になると頂上のヨンデ峰(ススキ平原)にて‘天冠山ススキ祭り’が開かれます。


全羅南道(霊岩郡 )

霊岩郡は全羅南道の西海岸側に位置しており、東側は長興郡、西側は西海岸の小さい湾、南側は海南郡と康津郡、北側は羅州市と接しています。全体の面積は565.9平方キロメートル、総人口は58,813人(2015年1月基準)です。2邑9面121里からなっており、郡庁は霊岩邑東武里に位置しています。 *自然環境* 天皇峰(海抜809m)を頂上とする月出山が東南方向に山脈を形成しています。西南部地域は栄山江と栄山湖の周辺に平野地帯が広がっており、東南部は高い地形、北西部は比較的低い地形となっています。霊岩川をはじめとする20あまりの大小の河川が月出山とその周辺の山から流れ出ており、平野地帯を流れ栄山江へと流れ、栄山江は北西方向に流れて行き三湖邑の栄山江河口堰に至り、西海へと流れ出ていきます。 *歴史* 古代―三韓時代(原三国時代)は馬韓に属しており、三国時代には百済の領土に属していました。三国統一後、景徳王の時代に霊岩郡と呼ばれるようになりました。 高麗―995年に安南都護府が置かれ朗州と改称されましたが、1018年に安南都護府が全州へ移ると再び霊岩郡と元の名称に戻りました。この頃、霊岩は湖南・西南部の行政の中心地でしたが、1172年に監務の派遣が始まると郡県が独立し、概ね現在の規模に相当する区域に縮小しました。 朝鮮―現在は海南郡に属している玉泉と松旨が百済時代から冷泉部曲となり朗州に属していましたが、1421年に海南郡に編入されました。 近代―現在の金井面と始終面は羅州に属していましたが、1891年に霊岩に編入され、1895年に羅州部霊岩郡となり、羅州郡に属していた金馬面、元正面、非音面、終南面と珍島郡の命山面を編入しました。純宗の時には、玉泉始面、玉泉終面、北平終面、松旨始面、松旨終面の南部6面に分割され海南に移され、金井面と新北面、始終面など羅州南部3面が復活しました。 *文化* 文化財―永保豊享祭は毎年5月5日に開かれる霊岩郡の面単位の郷土イベントです。徳津面内に組織された永保愛郷会が1979年から孝子、孝婦を表彰し、また1931年5月の兄弟峰独立万歳運動の精神を称え、その生存者と遺族たちを招待し慰労する敬老国楽の宴などを繰り広げます。 その他、日本の飛鳥文化が開花する上で影響を及ぼした王仁博士の業績を称える王仁文化祭りでは、農楽や様々な伝統民俗ノリ(遊び)などを楽しむことができます。 民俗―カンガンスルレは全羅南道の海岸沿いの地域一帯で生まれた婦女たちの民俗ノリ(遊び)で、主に秋夕(旧暦8月15日)の夜に行なわれ、その起源は壬辰倭乱(文禄・慶長の役)にさかのぼるとされています。