慶尚北道(鬱陵郡)

独島(トクト / 総面積187,554㎡)は鬱陵島(ウルルンド)の南東87.4㎞の海上にあります。東経131度52、北緯37度14の地点に位置する、韓国で最も東にある島です。新羅(57 B.C.-A.D. 935年)智證王13年(512年)に于山国は新羅領土に帰属し、毎年、于山国は新羅に貢物を献上していたという記録が残っています。朝鮮(1392-1910)時代の「成宗実録」には、金自周が独島の姿を描写した内容が記錄されています。朝鮮時代には独島を三峰島・可支島・于山島などと呼んでいましたが、1881年に「独島」と名前が変更されました。「独島」という名前は1906年 鬱陵郡守・沈興澤により初めて使われ、1914年行政区域改編により、慶尙北道の一部となりました。独島には東島と西島があり、約89の付属島で成り立っています。東島(海拔 98m)には噴火口がありますが、西島(168m)には噴火口はなく、火山岩からできています。東島と西島の間には兄弟洞窟があり東島には海蝕洞窟と海蝕台及び海蝕崖が発達しています。現在独島には韓国の警備隊が駐屯しており、岩の上に家を建て、水質の高い水が湧き出る泉から生活飲料水を供給しています。


慶尚北道(慶州市 )

羅宮(ラグン)とは新羅の宮殿を意味し、伝統韓屋に現代的な内部施設を取り入れた高級韓屋ホテルです。計16棟あり、すべての客室は回廊でつながった独立家屋で構成されています。客室タイプはヌマル(高床の縁側)型とマダン(庭)型に大別されます。ヌマル型客室の最大の特徴は、オンドル(床暖房)部屋とつながっているヌマルで、お茶とお菓子が楽しめることです。ヌマル型の居間の左側には露天風呂が設けられ、趣のある温泉浴が楽しめます。マダン型には庭とともに広い露天風呂があります。全室は宮殿のような感じの寝室やオンドル部屋、居心地の良い居間、1年中利用できる露天風呂で構成されています。 関連ページ:ココロとカラダを癒す韓国の温泉旅行 (スパリゾート)


慶尚北道(安東市 )

知礼芸術村(チレ・イェスルウォン)は祭祀のような韓国の伝統的な文化を体験できる村です。ここでは毎月餅つき,キムチ作り 等の行事を行っており伝統家屋で宿泊することもできます。 知礼芸術村 は臨河ダムの建設で水没の危機にさらされた芝山書堂(文化財資料 第49号),芝村宗宅(文化財資料 第44号), 芝村祭庁(文化財資料 第46号)を移した村です。 芝山書堂 は芝村 金邦杰(1623-1695)先生の遺德を追慕するために正祖 (1752-1800)24年(1800)に後孫により建てられ学問を研究する場所として使われました。芝村宗宅は金邦杰先生の宗家で芝村祭庁は祭祀を行う祠堂でしたが先生の要請で1712年に建てられ後學のための講堂として使われてきました。 昔の瓦家の後ろを低い山々が知礼芸術村を囲んでおりその下には湖があります。 芸術村の大門を過ぎると広い庭があり正面に母屋, 右側には書堂,左側の丘には 祠堂があります。 350年近い歴史をもつにもかかわらず薪で火をつける伝統的なオンドル部屋があります。このような小さいところまで昔の姿がそのまま残っているため韓国の伝統文化を深く理解し体験できます。 芸術村は外国人の文化探訪の場所と芸術人の創作場所,会議場として利用されており伝統生活の学習場,儒教研修員として活用されています。


慶尚北道(栄州市 )

浮石寺(プソクサ)はとても男性的なお寺です。韓国の他のお寺と違い建物規模も大きく男らしく景色もまた 爽やかです。浮石寺は676年 新羅( 57 B.C.~A.D. 935) 文武王(在位 661∼681)の時に義湘祖師(625~702)が 王の命を受けて建てたものです。その後高麗(918~1392)顯宗 在位(1010∼1031)7年(1016年)に円融國師(964~1053)が無量壽殿(国宝18号)を建て直しました。それ以降は何度か直したと伝えられています。お寺を建てる時にまつわる義湘と善妙の説話は有名です。 義湘大師が唐(中国の王朝 )に留学した時出会った善妙は義湘が国に戻ると伝えると海に身を投げ死んで龍になったそうです。義湘を守り新羅までついてきた 善妙 は浮石寺を建てようとする 義湘大師を妨害する群れの前で空中に岩を3回浮かせる奇跡を行いました。この時できた浮石は無量壽殿の左側にあり大きくて平たい岩が地面から浮いていることからこの寺の名前が" 浮石寺 "と付けられたそうです。浮石寺は入口の天王門から安養門に着くまで108の石段を登りますが、これは108の煩悩からの救いの意味がこめられています。一柱門, 天王門 を過ぎると 浮石寺の三層石塔が現れ ,その上に梵鐘楼が見えます。梵鐘楼を過ぎると,極楽に向かう入り口を意味する "安養"という 樓閣があります。安養楼を過ぎると柔らかい曲線美を強調した浮石寺 の本殿 無量壽殿に着きます。無量壽殿 は高麗時代に作られた木造建物でその中には塑造如來坐像 (国宝45号)が安置されています。また寺の中には国宝である 祖師堂(国宝19号) 祖師堂壁画(国宝46号) 無量壽殿前 石燈(国宝17号)等がありそれ以外にも多くの遺物と遺蹟があります。


慶尚北道(安東市 )

安東民俗村(アンドン・ミンソクチョン)は安東民俗博物館の野外博物館で、安東ダム建設で水没した地域から移された茅葺の家や韓屋(瓦屋)などの文化財があります。 民俗村の入り口には二つの大きな長承(丸太に人の顔をこっけいに彫ったもの)があり、その横には安東出身の有名な詩人李陸史(1904-1944)の詩碑があります。詩碑には代表作「広野」が刻まれていて、詩碑の後ろに続く坂を進むとドラマ「太祖王建」の撮影地があり、撮影に使われている高麗時代の役所、牢獄、民家など20数件の建物があります。慶尚北道聞慶と忠清北道堤川から慶尚北道安東にかけての一帯がドラマの撮影地として選ばれたのには歴史的な背景があります。安東の豪族たちは王建(高麗の初代王、在位918-943)が高麗(AD918-1392)を建国するにあたり彼を支持したのです。 安東民俗村の近くには安東民俗博物館、ドラマ「太祖王建」の撮影地、安東湖などがあります。これらをじっくりと見るなら半日ほどかかるでしょう。


慶尚北道(慶州市 )

谷川のふちの岩の上に位置する鮑石亭(ポソクジョン-面積 7,432㎡)は1963年1月21日に史跡第1号に指定されました。新羅(57B.C.~A.D.935)時代に別宮があった場所で、今では、アワビの形をした石造水路だけが残されています。石溝の形をした曲がりくねったアワビの貝殻に似ていることから、鮑石亭と名付けられました。 鮑石亭は63個の石材で組立られており、大きさは幅35cm、深さ平均26cm、長さが10mほどになります。南山溪谷から流れる水を鮑石亭に引いて石の亀を通して流れるようにしたと記録にはありますが 現在は残っていません。新羅の王がよく君臣や貴族を率いて遊びに来た場所で、石溝に沿って流れる水に杯を浮かべ、その杯が自分の前に来る前に詩を作りながら過ごした場所として知られています。鮑石亭横の南山の鮑石溪谷は、澄んだ渓谷水が流れており、新羅時代から景観の美しい場所として人々に愛されてきました。現在も樹齢数百年になるケヤキや松、竹林が立ち並ぶ壮麗な景色が広がります。


慶尚北道(慶州市 )

慶州から奉吉里(ボンキルリ)海水浴場行きのバスに乗って50分ほど行くと東海が見えてきますが、その青い水面の先に小さな奇岩が見えてきます。これが新羅・高句麗を統一した新羅(BC 57~AD 935)の第30代の王である文武大王(AD661-681)の水中陵(ムンムダウァンスジュヌン)。他に例を見ないこの水中陵は文武大王の遺言によって作られたもので、大王は亡くなってから海の龍となり国を無事を守る存在と考えられており、王室は王の死後慶州からほど近い距離にあるこの地を選びこの岩島に大王を葬ったとされています。周囲が200メートルの岩の中心東西南北に水路を造って小さな穴を掘り、深さ3.6m、幅2.85m、厚さ0.9mの大きい石を水中2mの深さの位置に置きその下に遺骨を奉ったといわれていますが、火葬にして灰をまいたという学者もいて説が分かれ議論が続いています。またこの文武大王水中陵近くの感応寺跡までは龍になった王が感応寺で体を休めるようにと小さな水路があったと言われており、その痕跡を見ることもできます。


慶尚北道(慶州市 )

国立慶州博物館(クンニプ・キョンジュバンムルグァン)は約90年の歴史を誇る博物館。新羅(BC57-AD935)の首都であった古都・慶州の文化遺産を見ることができる博物館として、規模、質共に慶州に来たら必ず訪れる観光コースになっています。展示室は本館と第1・2別館、野外展示場の四つに分けられ、本館ではさまざまな土器や美術工芸品を見ることができます。また菊隱記念室には李養璿博士が収集品保護のために寄贈した文化財666点が展示されています。第1別館である考古館には慶州市内の所々に残っている巨大な墓から発掘された遺物が展示されており、金冠や冠飾り、帯、耳飾りなどの金装身具などが見所。これらの文化財を通して新羅時代の優れた芸術性を確認することができるでしょう。また第2別館である雁鴨池館では雁鴨池から発掘された3万点余りの文化財の中でも代表的なものを見学できますが、他の展示館の物が王族の墓から出土した作品であるのとは違い、ここにある遺物は生活用品となっており、新羅時代の宮中生活の様子を知ることができるようになっています。また野外展示場には韓国の代表的な梵鐘である聖德大王神鐘があるほか、慶州地域の寺・宮闕の跡などから移された各種石遺物も展示されています。


慶尚北道(聞慶市 )

聞慶(ムンギョン)セジェ道立公園は鳥も飛んで越えるのが難しい険しい山にある三つの関門がある公園です。鳥嶺山を越える聞慶セジェは昔から韓国で最も高く険しい峠でした。聞慶セジェは朝鮮(1392~1910)太宗(在位 1400∼1418)の時に開拓された道で1925年新しい道路が梨花嶺峠に通じるまで利用されました。このセジェに城壁と関門を作ったのは壬辰倭乱(1592年と1598年)以後です。1594年に第2関門である鳥谷関を設け, 1708年に主屹関と鳥嶺関を設け国防の要塞としました。この関門はそれ以降毁損しましたが1966年 第1、2、3関門と城壁が事蹟第147号に指定され1976年に復元されました。嶺南の第1関門である主屹関から大路に沿って1.5km程のぼると 鳥嶺院に着きます。院といいうのは 出張官吏に宿食を提供するために駅と駅の間に設置した旅館のようなもので現在は 石垣だけが残っています。1983年 復元された酒幕を過ぎると第2関門である鳥谷関に着きます。鳥谷関を中心としてこの一帶は斧折れの自生地として有名で 聞慶セジェ民謠碑が左側の道に建てられています。主屹関から鳥谷関までは3km。鳥谷関から鳥嶺関まで3.4kmに達する散策路には所々に岩と涼しげに流れる溪谷が調和をなしています。大路ではない水の音が聞こえる道に沿ってのぼると滝がでてきて更に 30分程のぼると惠国寺に着きます。惠国寺は主屹山の麓にある寺刹で恭愍王(在位 1351∼1374)が紅巾賊の乱(農民反乱)を避け留まった所です。 惠国寺 を過ぎ宮殿の跡を経て1km程のぼると主屹山霊峰に着きます。山の頂上から見下ろすと曲がりくねって広がる山脈が壮観な眺めです。このような 山の頂上から溪谷を過ぎると鳥谷関に着きます。聞慶 の3関門を抱く主屹山 (1,106m)は 主屹関から鳥谷関まで4~5時間程度かかり、この一帯は1981年に道立公園に指定されました。聞慶セジェ道立公園にあるKBSドラマ撮影場は時代劇専用セットとしては世界最高を誇っています。高麗時代の三つの宮殿と民家 等が6万㎡の敷地に作られています。


慶尚北道(慶州市 )

慶州普門観光団地は慶州市にある国際的な観光団地です。慶州市内から東に約6kmの距離にある普門湖を中心とし、約1,033 haにかけて作られた観光団地で、全地域が温泉地区及び観光特区に指定されています。ここは、1979年4月にオープンした総合観光休養地として、団地の入り口には 高さ12mにもなる人工滝が流れています。 また水車もあり、徳洞湖から流れてくる水を利用し、自然の水圧で回っています。普門観光団地の中には国際会議場、観光センター、ゴルフ場、総合商店街、観光ホテルなどがあり、伝統的な韓国の建築樣式に合わせてデザインされています。その他、遊覧船の船着場やユクブ村、ソンジェ美術館、普門野外公演場、自動車劇場、慶州ワールドなどの娯楽施設もあります。普門野外公演場では毎年4月から1月まで、韓国の伝統国楽公演を無料で観覧することができます。また、普門団地にある温泉からは約35.5度の温泉(非加熱)が湧き出ており、温泉も楽しむことができます。湖に沿って長く広がる散策路は4月になると、桜で団地の中がピンク色に染まります。そよ風に揺られて舞い落ちるピンク色の桜雪は、見る人を思わず微笑ませる魔法使いです。