ソウル(城北区) , 大学路・城北洞

貞陵(ジョンヌン)は、朝鮮を建国した太祖の第2夫人の陵。他の陵に比べ小規模で豪華でもなかったためきちんと保存もされていませんでしたが、その理由は朝鮮時代の王位争いによるものとされています。当時王には何人かの夫人がいて、後継ぎも決して少ない方ではありませんでした。王の崩御後は第1夫人の長男が継ぐのが普通ですが、王の座に就こうとその子ども達が争いを始め第2夫人が自分の息子を王位に就かせましたこれに対し太宗は第2婦人に対する憎しみを燃やし、自分が王座についた後その墓を手入れできないようにしてしまったのです。全体的な作りは他の陵と同ですが、貞陵はこのような理由によって他の陵に比べ粗末なものとなっています。また他の陵と違う点として、紅門と丁字閣を結ぶ線は普通直線ですが貞陵は直角であり、これを見てもこの陵が冷遇されていたということが分かります。しかし今では家族や恋人たちが訪れ、散歩のコースとして人気。周囲の木々も美しく静かな雰囲気が都会の喧騒をしばし忘れさせてくれます。また管理事務所前の左側の道に沿ってしばらく行くと樹齢300年のけやきもあり見所となっています。


京畿道(広州郡) , 盆唐

南漢山城は登山とドライブコースで有名なソウル近郊の名所です。ここは季節ごとの景観が美しいことで有名です。春にはアカシアの木が茂り、夏には鬱蒼とした木々が山全体を覆います。特に秋には真っ赤な紅葉で山歩きを楽しむ人が多く訪れます。南漢山に位置する南漢山城は2000年前の高句麗時代に造られた土城です。漢陽を守るように北側は開城、南側は水原、西側は江華、東側は広州に4大要塞があり南漢山城は広州に位置していたといわれています。ソウルから東南側に24キロ、城南市から北東に6キロの場所に位置する南漢山にあり、全長11.76キロ(本城9.05キロ、外城2.71キロ)、高さは7.3メートルあります。元々、2,000年余り前高句麗の東明王の息子・温祚の城であったという記録が残っていますが、唐・新羅戦争の真っ只中だった文武王新羅13年(673)に漢山州に築かれた主将城という説もあります。その遺跡を活用して後世でも幾度か修繕されていましたが、朝鮮時代初め光海君の時代(1621)本格的に築造されたと言われています。石垣で築かれた南漢山城の周囲は約12キロもあります。城の中には守御庁を置いて官衙課倉庫、行宮を建設しました。山城が築造され初めて施行された機動訓練に参加した人員だけでも12,700人と言われていますが、現在城内に建物はほとんど残っていません。今も残る建造物には東、南門と西将台、顕節祠、演武館、長慶寺、池水堂、迎月亭、枕戈亭、高台などがあります。そのうちの4大門と守御将台、西門中間の一部城郭は円形の形がきれいな状態で保存され南漢山城は史跡第57号と道立公園として指定されています。*南漢山城道立公園の主要文化財*1)南漢山城(城郭)-国家史跡第57号、南漢山城行宮-国家史跡第480号2)守御将台-京畿道有形文化財第13)崇烈殿-京畿道有形文化財第2号4)清涼堂-道有形文化財第3号5)顕節祠-京畿道有形文化財第4号6)長慶寺-京畿道文化財資料第15号7)枕戈亭-京畿道有形文化財第5号8)演武館-京畿道有形文化財第6号9)池水堂-京畿道有形文化財第14号10)望月寺-京畿道記念物第111号11)開元寺-京畿道記念物第119号


慶尚南道(陜川郡 )

通度寺や松広寺とともに韓国の3大寺院の一つである海印寺は、802年に建てられたと伝えられています。現在寺院の中には大小の多くの仏殿がありますが、ほとんどは最近になって建てられたもので、蔵経板殿のみ唯一朝鮮初期に建てられた形態そのままで残っています。蔵経板殿は13世紀に造られた文化遺産、8万枚余りの高麗大蔵経板が保管されている木造の建物です。同じ規模や形態を持つ二つの建物が南北に並んで建っており、南側の建物を「修多羅殿」、北側の建物を「法宝殿」と呼んでいます。華やかな装飾や色づけをせず、大蔵経板を保管するための最小の機能のみを備えているのが特徴です。通気性がよいため湿気に強く、室内温度の適正に保たれた技術が科学的にも優れるこの建物は、現在まで八万大蔵経板が無事に保存されてきた重要な役割を果たしてきました。蔵経板殿の正確な建立時期はわかっていませんが、1488年、朝鮮世祖の命で建てられ、その後一度も火災や戦争の被害に遭っていないものとされています。世界唯一の大蔵経板の保管用の建物として、建物自体の美しさだけでなく、隠された科学的な技術が認められ、1995年に世界文化遺産に登載されました。 


慶尚北道(慶州市 )

石窟庵(ソックラム)は 吐含山に位置する韓国の代表的な石窟寺刹です。国宝 第24号に指定された石窟庵の正式名称は石窟庵石窟です。1995年 ユネスコにより世界文化遺産に指定された花崗岩で作られた人工石窟寺院です。新羅( 57 B.C.~A.D. 935) 751年景德王(在位 742∼765)に金大城( 700~774)が作り始め24年かかって774年 惠恭王( 在位 765∼780)の時に完成させました。石窟庵 は佛国寺を建てるときに一緒に建てられたものとして知られています。 高麗時代[新羅末に分列した 韓半島を再び統一して建てられた王朝(918∼1392)] に作られた歷史書の 三国遺事によれば 金大城 は現世の父母のために佛国寺をたて, 前生の父母のために石窟庵を建てたそうです。吐含山(海拔 745m)の東側の峰に位置する石窟庵は花崗岩を削って人工的に築造された石窟寺刹です。円形の主室には本尊像を始めとする 菩薩と弟子像 等があります。石窟庵は 本尊像を安置するため作られた寺です。本尊像は蓮花紋が刻まれた壇の上に座っていて優しい姿と慈悲深い表情をしています。天井は 半月や弓模樣の丸い様式でその上に蓮模様の円板をのせて蓋をしています。ここから見る日の出もまた美しいため多くの人が石窟庵を訪れています。


江原道(寧越郡) , 平昌

荘陵は、朝鮮第6代王であった端宗の陵墓です。端宗は、その叔父である首陽大君に王位を奪われた後、清冷浦に流され17歳の時に生涯を終え、その死体は東江に捨てられました。後難を恐れて誰も死体の処理をしませんでしたが、寧越戸長の厳興道が死体を荘陵まで運びました。粛宗の時代である1698年になり、端宗が再び王の座に戻り、王陵に埋葬され、死後の贈り物としての陵号が荘陵となりました。荘陵の周囲にある松の木は、全て陵墓に向かってお礼をするように曲がっており、その様子に圧倒されます。毎年4月の最後の週末には端宗文化祭が盛大に開催され、特に朝鮮時代の再現イベントでは1000人を超えるが参加する大規模な行事です。2009年6月30日に荘陵を含む朝鮮王陵40基がユネスコ世界遺産に登録されました。 


忠清南道(公州市 )

公山城(コンサンソン)は、百済時代の文周王1年(475)に、漢山城から熊津に首都を移した後、聖王16年(538)に首都を扶余に移すまでの5代64年の間、都である公州を守るために建てられた城です。史跡第12号である公山城は全長2,660mの巨大な城郭で、海抜110mの稜線に位置しています。東西に約800m、南北に約400mの長方形の形をしています。元々は、百済時代の土城だった公山城ですが、朝鮮時代に現在の石城に改築されました。城内には、百済時代の池が2ヶ所、高麗時代に立てられた霊隠寺、朝鮮時代の仁祖王が李适の乱を逃れ一時避難していた双樹亭(サンスジョン)や史跡碑、南門である鎮南楼、北門である光復楼などが残っています。東門と西門は、最近復元されたもので、この周辺を流れる錦江(クムガン)や、鬱蒼とした森が調和し、絶景が広がっています。家族や恋人同士で錦江を眺めながらゆっくりと散歩を楽しめる城壁の道や、木が生い茂った森にも散策路があります。


京畿道(坡州市 ) , 坡州(ヘイリ村)

* 長陵(坡州) (史跡 第203号 指定)坡州にある長陵(チャンヌン)は文化保存の管理上、非公開文化財となっています。朝鮮16代王である仁祖(1595-1649、在位 1623-1649)と妃、仁烈王后(1594-1635)の墓です。仁祖は仁祖反正(1623)を通して王位につきましたが 丁卯胡乱(1627)や丙子胡乱(1636)などの試練に遭い、1649年に昌德宮の大造殿で亡くなりました。


忠清南道(扶余郡 )

扶余には百済時代の古墳が点在しています。その中でも百済の王陵と伝えられている陵山里古墳(ヌンサルリ・コブン)は、規模が大きい数個の墓から成っており、保存状態が非常によい古墳です。古墳群の入口にある百済古墳模型展示館では、百済の古墳が実物大や模型で展示されており、百済の墓地を一目で見渡すことができます。そこから5分ほど内部に入って行くと、南向きにお椀を伏せたような古墳7個が、慎ましやかにその姿を見せています。古墳を横から見ると全て円形古墳で、内部は穴式石室墳になっています。陵山里古墳の1号墳では、百済の古墳ではほとんど目にすることができない四神図壁画が発見されました。古墳の内部に壁画を描くことは高句麗の文化で、壁画が描かれた時期に高句麗と百済の文化交流が活発に行われていたという事実を推測することができます。


全羅北道(益山市 )

1989年から20年間、王宮里遺跡(ワングンニユジョク)の発掘調査を行った結果、百済の武王の代に王宮として建築され、使用されていましたが、後に王宮の重要建築は取り壊され、その場所に寺院が建てられたことが確認されました。王宮里遺跡では韓国の古代の王宮としては初めて王宮の外郭の塀が見つかりました。また王が政事を行っていた正殿などの14の建物の跡や、百済最高の庭園の遺跡、陶磁器を作っていた工房の跡、大型便所の遺跡などが発掘され、王宮の築造過程や王宮での生活を把握するためのよい資料となっています。


京畿道(南楊州市) , 南楊州

洪裕陵は洪陵と裕陵を合わせた言葉です。丘を間にはさみ、同じ圏域にあります。洪陵洪陵は朝鮮第26代の高宗(1852-1919、在位1863-1907)皇帝と明成皇后(1851-1895) 閔氏の陵です。元々洪陵は明成皇后の陵としてソウル・清涼里にありましたが、高宗の死後は今の場所に移して一緒に祀られています高宗は興宣大院君・李昰應の2番目の息子で、12歳の若さで王位につきました。高宗は1897年、大韓帝国の樹立を宣布し皇帝の位につきましたが、日本の圧力が増す中、乙巳条約を結んで外交権を日本に奪われ、1919年徳寿宮にて67歳で崩御しました。明成皇后は驪城府院君・閔致禄の娘で、1866年(高宗3年)に王妃となりました。1873年、高宗の親政(王が直接国の政治を手がけること)をきっかけに政治的実権を掌握後、親露政策に不満を抱く日本人刺客に殺害されました。裕陵裕陵は朝鮮最後の王陵であり、最初の皇帝陵です。朝鮮第27代純宗(1874-1926, 在位期間 1907-1910)と、その妃である純明孝皇后(1872-1904)閔氏、継妃・純貞孝皇后(1894-1966)尹氏を合葬した唯一の「同封三室」の陵です。純宗は高宗と明成皇后の2番目の息子で、朝鮮最後の王です。民族主権を守護しようとした悲劇的な歴史の王でした。純明孝皇后は純宗が即位する前、皇太子として始めてオリニ大公園付近の龍馬山の麓に安葬されましたが純宗の死後、陵を移して合葬されました。純貞孝皇后は12歳の純宗の后となり、1910年、日本帝国が国権を奪おうとした際、玉璽(国家文書に使われた玉で作った王の印鑑)をスカートの中に隠したというエピソードの人物です。その後、国権は奪われ、大韓帝国は滅びてしまいます。死ぬ瞬間まで温和な性質と気品を忘れなかった純貞孝皇后は大韓帝国の最後の皇后です。洪陵と裕陵は従来の朝鮮王陵と異なる点があります。それは朝鮮の国名を大韓帝国にかえた際、王を「皇帝」と称したほど、皇帝陵の様式に従い明・太祖の孝陵を見習って作ったことです。洪裕陵には他の王陵では見られなかったキリンやゾウ、ライオン、獅子、ヘテなど多様な動物形態の石物があります。洪陵の石物は伝統的な方法で作られており、裕陵の石物は洪陵のそれよりも事実的かつ優れた手法が見られます。