全羅北道(高敞郡 )

店名にある「風川」とは地名ではなく、潮の満ち干きが激しい西海岸や南海岸に接した川の中でも、淡水と海水が出会う場所を指す言葉です。このような場所は波が立ちやすく、強い風が吹くと言うことから「風川」と呼ぶそうです。高敞の干潟風川ウナギは、風川で獲れるウナギ料理店の中でも、全羅道で一番有名です。海水と淡水が出会う干潟でエサを与えずに育てたウナギなので、他のウナギに比べて優れて歯ごたえが良いのが特徴です。干潟で獲れた脂ののった淡白なウナギを、適度に甘辛い醤油のたれにつけて食べると、お口の中に美味しさが広がります。


全羅北道(群山市 )

日帝強占期に群山で大規模農場を経営していた日本人の大地主、熊本利平が建てた別荘で、一年で春と秋に農場を訪れた際に一時的に使用していました。西洋式、日本式など様々な建築様式が折衷されて建てられたのが特徴で、終戦後、韓国農村保健衛生の先駆者である李永春博士が居住したことから、李永春家屋とも呼ばれています。美しい建物の外観は「氷点」、「砂時計」、「野人時代」など数多くの映画とドラマの撮影場所となりました。李永春博士は、韓国のシュバイツァーと呼ばれ、平安南道龍岡郡で1903年10月に生まれました。平壌高等小学校司法科時代の担任だった京城帝大の渡辺教授の紹介で熊本農場に所属する約2万人の小作農家族を世話するために1935年4月、33才という若さで慈恵医院長として赴任することになりました。李永春は韓国で最初の看護教師と医療保険組合を実施しました。


全羅北道(南原市 )

智異山ベムサ渓谷(ベムサゴル)、達宮村に位置する智異山食堂は、地元で育った黒豚専門の店です。ここのおすすめメニューである肉質の良い地どれの黒豚を炭火で焼き、野外で3年以上熟成させたキムチと一緒に味わうことができる黒豚の塩焼きは弾力があり香ばしい味が逸品です。その他にも17種類の山菜定食、地鶏料理、辛味鍋など多様なメニューが揃っています。また、神秘の薬水や各種山菜ナムル、地元で作られたはちみつなどの特産物も購入することができます。以前、名店としてテレビで紹介されたこともあり各地方からも多くの人が訪れています。 食堂が位置する達宮村は宿泊施設や飲食店が多く、すぐ横には達宮渓谷があるため家族単位での旅行客や智異山登山客が足を休めるのにちょうど良い場所です。


全羅北道(井邑市 )

高麗時代、地方の儒学者により崔致遠の学問と徳行を称えるために生祠堂(生きている人を祀る祠堂)が建てられ、泰山祠と呼ばれていました。この建物は1483年、丁克仁が建てた郷学堂があった場所(現在の場所)に移されました。1696年に崔致遠と申潜の2つの祠堂を1つにし、王より「武城」の扁額が下賜されて書院となりました。武城書院(ムソンソウォン)は1868年の大院君の書院撤廃を免れた47の重要書院のひとつで、その後、修復を重ねながら今日に至っています。現存する建物には祠宇、絃歌楼、明倫堂、荘修斎、興学斎、庫舎などがあります。


全羅北道(茂朱郡 )

1592年の壬辰倭乱(文禄・慶長の役)のときにソウルの春秋館を始めとした全国の史庫が焼失し、春秋館を除いた鼎足山・太白山・妙香山・五台山などに新しい史庫を設置することになりました。1614年に天恵の要塞として知られた茂朱の赤裳(チョクサン)山に実録殿を建てて妙香山の実録を移し、1641年には璿源(ソンウォン)閣を建てて王室の族譜である『璿源録』を保管していました。後に日本により史庫が廃止されるまで、300年以上国家の貴重な国史を保存してきた韓国5大史庫の一つで、全羅北道記念物第88号に指定されています。 この史庫跡は残念ながら赤裳揚水発電所ダムが建設されて水没し、安国寺とともにダムの上側に移転を余儀なくされました。赤裳山は四方が切り立った岸壁で、絶壁周辺にはカエデの木が多く、秋には山全体が赤いスカートを履いたように見えることから「赤裳山」という名前が付きました。


全羅北道(淳昌郡 )

たまには、現代的で洗練されたインテリアではなく、多少不便でも昔のままの懐かしい食堂で食事をしたくなる時はありませんか。そんな時お勧めなのがこちらのお店。慶尚南道の咸陽から全羅北道の井邑へと向かう道にある淳昌の「玉川ゴル韓定食」です。昔の宿屋を思い出させる古びた旧韓国式家屋の外観と、黄色い油紙が懐かしいオンドルの素朴な店内は、365日行列ができる名所です。練炭の火で直接焼いた豚プルコギ定食(テジ・ブルペク)と牛プルコギ(ソ・プルゴギ)を始め、20種類以上のおかずと味噌鍋(テンジャン・チゲ)まで、昔ながらの味がそのまま生きています。食材に使う野菜やお米は、真心込めて直接栽培したものを使用しています。


全羅北道(完州郡)

全羅北道完州郡(ワンジュグン)の澄んだきれいな農家が立ち並ぶ鳳捿(ポンソ)コル(谷)は青い山に囲まれた深く静かな山あいの村です。 斗億(トゥオク)ヘンボクトゥリム村は鳳捿コルの斗億村の中にある韓屋で、建物の前には広々とした芝の庭が、そして背後には高い山々が屏風のように広がっています。自然に恵まれたこの地に来れば、爽快な空気が体中をきれいにしてくれるような気分になるほどです。 韓国の風水地理的に素晴らしいとされる場所・明堂(ミョンダン)でも韓国の八大明堂のひとつに数えられる鳳捿コルのトゥオク村。 全州中心部からさほど離れていませんが、桃源郷を思わせるほど深く物静かな山間の村です。村の右手には終南山(チョンナムサン)、左手には西方山(ソバンサン)があり。山が村を包み込んでいるかのように見え、この姿が鳳凰が包み込んでいる形に似ていることから「鳳捿」という地名が付けられたといいます。こんな地形のおかげで空気は澄み、一年を通じて美しい風景を誇っています。 斗億村は完州郡の村活性化事業を通じて、斗億ヘンボクトゥリム村に生まれ変わりました。斗億村には築150年の韓屋から築45年の韓屋までさまざまな韓屋が軒を連ねていますが、2010年から村では共同で韓屋宿泊業と協力しさまざまな体験プロフラムを開始しました。 その中で斗億ヘンボクトゥリム村は教育用体験館としての機能を果たしているところです。客室のほか、およそ100平方メートルの広さの大きな体験場があり、団体専用施設として利用しています。 体験場では礼節教育の実施や科挙試験の再現を体験したりします。 宿泊費用には1日3食の食事も含まれていますが、酵素を使って作った漬物やナムル、野菜がいっぱいの地元の田舎料理で構成された健康食をご提供しています。味もすばらしく、都会では味わえないおかずが多く、ご利用のお客様から好評を博しています。 敷地入口の大門脇にある門間(ムンガン)チェの建物に入ると、さまざまご利用いただけるとても広々とした芝の中庭が目に飛び込んできます。そして中庭の前には青い山々を背景に正面、左右にと大きくはだかる瓦屋屋根の家屋が広がり、伝統韓屋の雄大な雰囲気を感じられます。 韓屋の客室は特別な装飾はなく、こじんまりとしてシンプルな造りです。薪を焚いて利用する昔ながらのオンドル部屋となっていることもあり、エアコンは設置されていません。 大門の正面にある体験館の戸は天井につるし開閉する形態となっています。そのため中庭に向って設置されている10つの戸すべて天井に吊るし上げており、山側の戸もやはりすべて開くと、四方に外の風景がパノラマのように広がり素晴らしい風景となります。 斗億ヘンボクトゥリム村は農漁村体験及び休養村の指定を受けた村です。このため村では共同でさまざまな体験を実施しています。 ガイドとともに村の森を巡る「自然体験」、願いを書いたネックレスを作ってかけたり、明堂を訪れる体験などもあります。種籾を蒔いたり、稲を刈ったりする「稲作体験」を始め、サツマイモ掘りの体験も季節毎に行っています。 また弓矢、丸い金属製のリングを転がして遊ぶクルロンセなど伝統遊びを体験することもできます。 ソリ(音)学堂や礼節教育などの体験も一年を通じて2日間のコースで行われています。 この他「杵つき体験」、「案山子作り体験」、「伝統チェギ作り体験」、「凧作り体験」なども常時実施しており、学校単位などの団体で韓国の伝統文化を自ら体験し学ぶことができ、児童・生徒の課外学習の場所として最適なところです。


全羅北道(扶安郡 )

シャニーモーテル(Shani Motel)は5階建ての全29室ある宿泊施設です。 全羅北道扶安(プアン)市外バスターミナルから徒歩7分の距離にあり、アクセスも大変よく、すべての客室が清潔で広々とした間取りとなっています。 お体の不自由な方向けの専用駐車スペースをはじめ、出入口のスロープ、点字ブロックなど肢体・視覚に障がいのある方向けの施設も完備しており、シャニモーテルならではのサービスとなったいます。特に目がご不自由な方をガイドする盲導犬とも一緒にお泊りいただけ、お体の不自由な方にもアクセスしやすいようになっています。 毎年5月のマシルキル祭りの期間には特にご利用のお客様が多くなっています。最も人気がある客室は一般室で、全室リーゾナブルな料金で皆様にご提供させて頂いています。


全羅北道(長水郡 )

全羅北道長水郡 長水邑にあるハヌルカドゥク長水韓牛専門店は、長水郡の韓牛協会が運営する直営店なので、信頼して韓牛を味わうことができます。特に、新鮮な牛刺し(ユッケ)の本場の味を味わえるお店です。外観は都心にある平凡な食堂と同じですが、店内は小さいホールと3つの個室からなっています。料理の材料は韓国産の韓牛はもちろん、米、キムチなどもすべて韓国産のものだけを使用しています。


全羅北道(茂朱郡 )

茂朱郡赤裳面にある赤裳山(1,034m)は、四方が層岩絶壁で囲まれています。この山の上の安国寺があった場所に茂朱揚水発電所所の上部貯水池である赤裳湖が建設されましたが、この湖の周りに長さ8,143メートルの赤裳山城があります。 高麗時代、契丹族の侵略があった際に近隣の数十の村から逃げてきた人たちが難を逃れた他、高麗末期の日本軍の侵略の際は、三道按廉使が軍隊を引き連れ応戦した古城だとされています。 高麗末期恭愍王23年(1374年)三道都統使であった崔瑩将軍が都に帰る途中、四面が切り立った岸壁で囲まれた天然の要塞を見て感嘆し、山城を建設することを王に建議したといいます。その後、朝鮮時代に入り、山城を建設し、5大史庫のうちの北側史庫が危険に晒された際に赤裳山史庫を設置し、韓国の国史を守ってきた由緒ある場所です。