忠清北道(丹陽郡 )

*三国時代の戦略的な要衝の地、赤城山城* 丹陽城在山にある石を積んで造られた山城で、1979年8月1日に史跡第265号に指定されました。周囲が約900mで大部分が崩壊されてしまい、北東側の内側の一部のみ残っています。城門は南西側、東側、南東側に3ヶ所で発見されました。城内には赤城碑があります。高麗軍が占領していたものを新羅軍が奪い、北進製作の前哨基地を構築した場所です。  *赤城山城の歴史的の意義* 1978年、城内で赤城碑が発見され、これによると新羅と高句麗の勢力関係の変動を知ることができます。碑石以外に三国時代の土器の破片と瓦の破片も発見され、高麗時代の遺物もあり、高麗後期まで今日の丹陽地方を治めてきた邑城の役目をしてきたことがわかります。城内には新羅および百済の土器のかけらや高麗朝の青磁のかけらなども発見されました。築城方法がとてもしっかりしており、新羅の築城術を研究するのに貴重な資料として評価されています。


慶尚北道(安東市 )

烏川遺跡(オチョンユジョク)は光山金氏礼安派の初代金孝盧が村を開いて以来600年にわたり子孫たちが暮らしてきた村の遺跡で、1974年の安東ダムの建設工事のため礼安面烏川洞から臥龍面烏川里へと移されました。濯清亭と後彫堂は国指定の文化財です。遺物展示館である崇遠閣にはこの家門の人たちが残した貴重な文書や戸籍類、土地証文、奴婢にまつわる文書などが展示されています。このうち7種429点の古文書と13種61点の典籍は宝物に指定されています。 濯清亭 1541年に建てられた光山金氏礼安派の宗宅(本家)に付属する亭。家屋に付属する亭としてはとても男性的で堂々としており重要な文化財です。朝鮮時代の三大名筆の一人である韓濩の書による額がかかっています。 後彫堂 光山金氏礼安派の宗宅(本家)の離れ。建築の年代は正確にはわかりませんが、金富弼(1516-1577)により建てられたものです。一般に離れは外離れと内離れに分けられますが、外離れは主人の休憩や社交の場、内離れはおばあさんや適齢期の娘たちが寝起きする場所でした。後彫堂は外離れになります。


全羅南道(麗水市 )

万聖里(マンソンニ)黒砂海岸(万聖里海水浴場)は、麗水駅から海岸道路を北に3kmほど行ったところにあるため、交通の便が便利です。長さ540m、幅25mほどの砂浜と平均水温が25℃とあたたかく、海水浴には最適な場所です。特に、ここの砂浜に広がる黒い砂は、遠赤外線の放射熱が毛細血管を広げ血液の循環を助け汗の分泌を促してくれるといいます。そのため、神経痛や各種婦人病に効果があると言われています。効能がピークに達する毎年旧暦4月20日(新暦5月下旬~6月上旬)には、黒い砂チムジルハンマダンが開かれます。海岸の周辺には各種便宜施設がよく備えられています。


忠清南道(瑞山市 )

国宝第84号に指定されている磨崖如来三尊像(マエヨレサムジョンサン)は百済時代の微笑がどんなものであったかを感じることができる百済時代後期の作品です。仏像の顔は太陽の光が当たる角度によって、時に厳しく、時に優しく、様々に変化すると言われています。龍賢渓谷を渡り階段を上り岩山を登ると、岩山に刻まれた仏像に出会うことができます。本尊である釈迦如来立像を中心に右側には弥勒半跏思惟像、左側には提華褐羅菩薩像があります。仏像の光背まで生き生きと保存されていて、特に本尊の光背の蓮の花の模様はとても美しい状態で保存されています。


京畿道(坡州市 ) , 坡州(ヘイリ村)

坡州三陵は恭陵、順陵、永陵の3つの陵で構成されています。恭陵は朝鮮第8代睿宗の太子妃である章順王后(1445-1461年)韓氏の墓ですが、章順王后が太子妃として亡くなったので簡略に作られました。一般的に立てられる望柱石(墓の前の両側にたてる一組の石柱)も省略されています。順陵は朝鮮第9代成宗の妃である恭恵王后(1456-1474年)韓氏の単陵です。全体的な陵の構成形式は恭陵と同じですが、順陵は王妃の陵であるため、恭陵に比べて、多くの石物(墓の前に置かれる石で作られたさまざまな物)が置かれています。恭恵王后は韓明澮の4番目の娘で、恭陵に埋葬された章順王后とは実の姉妹でした。 姉妹が揃って王妃となった例は、朝鮮王朝500年の歴史で前例がないことでした。永陵は英祖の長男である追尊王真宗(1719-1728年)と彼の妃である孝純王后(1715-1751年)趙氏の陵です。真宗は7歳で皇太子に冊封されましたが、1728年に昌慶宮の進修堂ジンスダンで夭折し(若くして亡くなり)ました。孝純王后は13歳で太子妃に冊封され、1751年に子のいないまま37歳で亡くなりました。


忠清南道(天安市 )

民謡「興打令(フンタリョン)」で有名な天安サムゴリ(三叉路)を記念し作られた公園です。 天安サムゴリは昔から北はソウル、南は慶尚道の大邱、慶州、西は全羅道論山、光州、木浦へ繋がる道が分かれる三南大路の分岐点として知られています。 ちなみに天安サムゴリ公園(天安三叉路公園)が位置する場所は昔、三叉路があった場所から約500m離れたところにあります。  


江原道(麟蹄郡) , 束草・雪岳山

韓国で唯一に北に向かって流れる川である内麟川(ネリンチョン)は、洪川と麟蹄を横ぎるように流れます。内麟川という名前は洪川郡内面の「内」と'麟蹄郡麒麟面の「麟」を合わせたものです。奇岩怪石と真っ白な砂場、砂利の上に透き通った渓流が谷に沿って流れています。内麟川渓谷(ネリンチョン・ケゴク)は、五台山渓谷と合江大橋近くから始まる57kmにおよぶ渓谷です。範囲があまりに広いため、ある一カ所を指して内麟川とは呼ばれず、一般的に内麟川の下流をさして呼んでいます。内麟川上流は美山渓谷などに分類されています。今までは交通が不便で、訪ねる人も少ないところでした。内麟川に合流する芳台川上流には鎮東渓谷があって、北側に点鳳山、芳台山、芳東薬水、芳台山自然休養林があります。また内麟川中流にはファンソ遊園地、ソリ遊園地が、下流にはピアシ渓谷があります。麟蹄邑古沙地域はピアシと呼ばれ、ピアシ江は県里から昭陽湖までの水流で、旅行客が多く訪れる地域です。内麟川の回りには多くの山と河川があります。広い林と岩がつらなり、キャンプと水遊びと釣りも兼ね家族で楽しめるところです。 


江原道(春川市) , 春川

ソウルから北に80km、春川から西南方面に10kmの所にあるある登仙瀑布(渓谷)はソウル、仁川、京畿道に住んでいる人たちの日帰り観光コースに適しています。


大田広域市(儒城区)

鎮岑郷校は1405年に賢儒の位牌を安置、配享し地方民の教育と教化のために創建されたといわれています。現存する建物として大成殿などがあり、五聖、宋朝六賢など韓国の十八賢の位牌を安置しています。朝鮮時代には国家から土地と典籍、労賃などが支給され、教官1人が30人程の生徒を教えていましたが甲午改革以後、新学制実施によって教育的機能はなくなり、現在は春と秋に釋奠を挙行し、1日と15日に焼香を行っています。この郷校の大成殿は大田広域市文化財資料第6号に指定されており、現在、郷校の運営は典校1人と掌議数名が担当しています。


全羅南道(順天市 )

曹渓山の北側の麓に位置する松広寺は陜川海印寺、梁山通度寺と共に、韓国の三宝寺刹と呼ばれています。松広寺の起源は新羅時代末期に 慧璘禅師が小さな寺を建て吉祥寺と呼んだことにさかのぼります。その後、普照国師知訥が定慧結社をここに移し、松広寺修道と座禅の道場として修行寺となりました。そして知訥をはじめとする16人の国師を輩出しました。また、木造文化財の多い松広寺は境内に約80棟の建物があります。16人の国師の真影を奉安する国師殿などの国宝3点、下舎堂、薬師殿、霊山殿などの宝物13点、天然記念物である双香樹などの国家文化財17点、慈靜国師舍利蓋などの指定文化財10点の合計27点の文化財が保存されています。大雄伝を中心に左右に僧宝殿と地蔵殿があり、荘厳な雰囲気を醸し出しています。*松広寺の3つ名物(1)萩の櫃: 大きな萩の枯れ木の中を掘って作った巨大なお櫃で、一度に4000人分のご飯を入れらる大きさ。(2)能見難思:精進料理を入れる器の一種で、 手工芸で精巧に作られたもの。(3)双香樹: 普照国師知訥と唐の湛堂王子が松広寺天子庵に着き、持っていた杖をついた所から芽が出たと言われています。高さ12m、樹齢800年になり、木全体が大きく曲がっているのが特徴です。