慶尚南道(昌寧郡 )


釜山広域市(北区)

2007年2月23日に釜山海洋自然博物館の分館として開館した釜山漁村民俗館は「川から海へ続く漁村文化旅行」を展示テーマに洛東江漁村民俗室と釜山漁村民俗室で構成されています。洛東江を中心に祖先たちの生活の様子や釜山漁村の時代別漁路活動、伝統漁法、文化遺跡、漁村民俗などに関する資料を総合的に展示してあります。


江原道(東海市)

墨湖駅は東海市発翰洞に位置し、1941年に開港した墨湖港(2.3km)および1.4kmにおよび砂浜が続く望祥海水浴場(6km)に隣接した駅です。海岸道路沿いには刺身タウンがあり、新鮮なお刺身を楽しむことができます。墨湖駅は1961年に運営を開始し、1988年12月15日に現在の駅舎が竣工しました。


全羅北道(益山市 )

史跡第347号に指定されている笠店里古墳(イプジョムニゴブン)は、全羅北道益山市熊浦面笠店里チルモク峠の丘陵に位置する百済時代の古墳群です。全部で8基の墓があり、1号墳は石室墳で、これ以外は破損のひどい状態で発見されました。出土品には土器類や金銅冠、金の耳飾り、ガラス玉などの装身具類、馬具、鉄器などがあり、百済時代の遺跡の中でも重要な遺物が発見されました。出土品により、5世紀ごろに作られた墓であると推定されています。金銅製の冠は日本で発見されたものと似ており、当時百済と日本の間で文化交流があったものとみられています。 


忠清南道(泰安郡 )

忠清南道泰安郡近興面新津島里にある「新津島」は、1.06k㎡程の面積で、程竹半島の端に位置しており、泰安郡から40km、近興面から1kmの距離にあります。高麗成宗時代、海岸防備のため万戸庁(万戸:武官職の名称)が設置され、それから住民が居住し始めたと言われています。 


全羅南道(谷城郡 )

鳳頭山の麓にある泰安寺は新羅景徳王元年(742年)に神僧3人によって建立されました。その後、文聖王9年(847年)に慧徹国師によって禅宗寺院として繰り返し開山されて九山禅門のひとつである鳳頭山派を形成しました。その後、高麗太祖の時に慧徹大師が滞在しながら132間の建物を建てて大規模なお寺になりました。高麗時代初め頃には松広寺、華岩寺がすべてこの寺の末寺でした。1925年にチェ・ナムソンが訪れて「新羅以来の名前のある寺である。渤海にある最初の禅宗の寺だ。古初の神域のようだ」と評価しました。韓国戦争の時に大雄殿をはじめ、15棟の建物が焼けてしまいました。その後、修理を行って現在に至ります。 境内には慧徹国師の舎利塔(宝物273号)をはじめとした5点の宝物があり、鳳頭山渓谷の絶妙な場所に立てられた凌波閣(地方有形文化財第82号)も見所のひとつです。特に、お寺入って約2.3kmの道路の左右にある鬱蒼とした森林と渓谷はとても美しく、秋になると紅葉が見ものです。現在、泰安寺には宝物など文化財9点が保存されています。また、泰安寺までの1.8kmの渓谷は春は新緑、夏は涼しげな渓谷、秋は紅葉とが楽しめる美しい散策路が続いています。


慶尚南道(昌原市 )

鎮海駅は1905年10月21日、三浪津と馬山を繋ぐ慶全線の開通を機に、1921年10月10日着工、1926年11月11日に開通した駅です。軍需物資取扱危険区域としての機能が根強いですが、毎年4月になると桜祭りが開かれ、軍港祭を機に観光客が急増するなどの特徴があります。 また、鎮海駅は、産業、海洋、港湾、観光インフラの整った希望と発展の都市として、東北アジアでも美しい港があることで広く知られています。


慶尚南道(居昌郡 )

処容岩(チョヨンアム)は、6坪ほどのとても小さな岩の島で、化け物を退治する効力があるという処容符籍(お守り)と関連する説話が伝わっています。また、「三国遺事」に記録されている処容郎の説話とも関係がある由緒深い岩です。 新羅第49代王の憲康王がこの地に遊びにやって来て水辺で休んでいたところ、昼間であるにも関わらず突然雲と濃い霧に覆われてしまい、道を見失ってしまいました。日官が東海の龍が不思議な変化をもたらしているため、良い行いをしてそれを解かなければならないと言いました。そこで王は、この近くに龍のための寺を建てるように命じると、雲と霧が晴れました。この寺というのが現在、蔚州郡青良面に址がある望海寺です。また、雲と霧に覆われた王が休んでいた水辺とされる場所は現在、開雲浦と呼ばれています。東海の龍の王は非常に喜び、王子7人を引き連れてやって来て踊りを踊り、音楽の演奏をしました。そのうちの1人の王子は王様について新羅の首都である慶州まで行き、国の政を助けたとされています。それが処容郎です。 王は処容に美しい女性を妻としてあてがい、級干という官職まで与え、王の側に置いておいた。しかし、美しい処容の妻を慕っていた疫神が人に化け、夜に忍び込み処容の妻の横で横になった。そんな様子を見ても処容は怒ることなく、歌を歌い、踊りを踊りながらその場を去った。そうするや疫神は処容の心の広さに感激し、今後は絶対に近づかないと誓ったとされています。この時、処容が歌った歌が有名な新羅郷歌の「処容歌」で、処容岩にもその歌詞が刻まれた碑石があります。 また、処容が踊った舞は重要無形文化財第39号に指定されています。 処容岩は、東海龍が7人の息子を引き連れて出てきた開雲浦聖地の岩であり、地方記念物第4号に指定されており、処容の説話と共に人々に知られています。