江原道(東海市) , 三陟

頭陀山と青玉山を背景にした武陵渓谷は、数百人が座れる武陵盤石を始めとし、美しい渓谷や景観が広がっています。この場所は高麗時代にイ・スンヒュが暮らしながら『帝王韻紀』を著述し、朝鮮・宣祖のときにキム・ヒョウォンがその名を付けたといいます。奇岩怪石が並び絶景をなしており、まるで仙境に到達したかのような感じを与えます。


江原道(春川市) , 春川

1967年11月に北漢江と昭陽江の合流地点をせき止めてつくられたダムで、昭陽湖と破虜湖から流れ込む水を均一に漢江に送り出すためにつくられました。よって、昭陽湖と破虜湖の配水により水位変動が激しいのが特徴です。また、衣岩湖は他のダムとは異なり平地形をなしており、水草も豊富なため、フナ釣りなどに最適です。初春から晩秋まではフナが釣れ、冬はワカサギの氷釣りなどが楽しめます。また、湖の中にはプンオ島と中島の2つの大きな島があり、春川市とも隣接しており交通の便が良く、周辺の自然景観も優れています。


京畿道(加平郡) , 南楊州

チャラ島は、京畿道加平郡加平邑達田里1番地一帯に広がる島です。1943年に清平ダムが建設されたことにより北漢江にできたチャラ島は、南怡島と直線距離にして800m程離れたところにあります。チャラ(スッポン)のような形をした丘がある島ということで「チャラ島」と名づけられました。東島、西島、中島、南島の4つの島からなるチャラ島には、レジャー施設や生態公園が造成されています。オートキャンプ場がある西島の一帯には、ドラマ『アイリス』のロケ地があり、中島には直径100mを超える芝生広場が広がる生態公園、チャラ島キャンプ場の西側には自然生態テーマパークの「二和園」が造成されています。チャラ島はキャンプ地として有名ですが、2004年から開催されているチャラ島国際ジャズフェスティバルが開催される地としても知られています。


全羅南道(宝城郡 )

毎年300万人以上が訪れる宝城お茶畑をバックグラウンドに宝城郡の象徴である韓国茶を楽しむことができるお祭りです。韓国お茶博物館ではお茶に関連する理論から体験まですべての過程を実際に体験することができ、韓国お茶ソリ文化公園内には野外舞台など多様な公演が行われます。  


忠清北道(提川市 )

忠州湖を見下ろすことができる山の端に位置した清風文化財団地は、忠州ダム建設によって水の下に沈むことになったことを受け、1983年から約3年にかけて現在の位置に移転・復元されました。移転先には、寒壁楼、錦南楼、八詠楼、凝清閣、清風郷校、古家4棟など、国宝2点、地方有形文化財9点、非指定文化財42点と遺物約1,900点があり、また遺物展示館には、300点ほどの遺物を展示、先祖の息づかいを感じることができます。


江原道(原州市) , 原州

オークバレーは、スキー場、コンドミニアム、ゴルフコースなどを備えた総合名門リゾートです。 自然に囲まれた「オークバレースキー場」は41万坪規模で、初心者用の2つのコースと中級者用の5つのコース、上級者用の2つのコースがあり、コースごとにテーマの異なる傾斜面からなっています。


ソウル(恩平区)

北漢山は1983年国立公園に指定された総面積80.669㎢の山です。北漢山の頂上は白雲台(836.5m)・仁壽峰(810.5m)・萬景台(799.5m)からなり、朝鮮時代には三角山とも呼ばれていました。これは最高峰の白雲台とその東側にある仁壽峰、南側にある萬景台の3峰が三角形の形をしていることから名づけられたといいます。 北漢山と呼ばれるようになったのは、朝鮮第19代目国王の肅宗の時代に北漢山城を築城した頃からだと推定されています。  


京畿道(南楊州市) , 南楊州

1995年にオープンした祝霊山自然休養林(チュンニョンサンジャヨンヒュヤンリム)は、祝霊山(886m)とソリ山(832m)へ続く様々な登山路と各種の便宜施設が整った休息空間です。祝霊山は木々が鬱蒼と茂り、渓谷が美しいことで有名で、森林浴場、体育施設、水遊び場、キャンプ場、自然観察場などの施設があります。


ソウル(江西区) , ソウル西部

許家岩という天然の岩の洞窟一帯に造られた公園が亀岩公園です。この岩から陽川許氏の始祖である許宣文が生まれたとされています。亀岩公園は医聖と呼ばれる許浚の記念公園で、許浚が広津で退いてから、かの有名な東医宝鑑を執筆した場所でもあり、許家岩の洞窟がある場所です。亀岩公園にはオリンピック大路の建設によってできた湖があり、その周りを屏風のようにアパートが高く建ち並んでいます。この場所には許浚が患者を治療する慈愛に満ちている姿の銅像があります。一方、美しい湖ができる前までは、ここは漢江の下流を渡る孔岩の渡し場であり、その横には20人余りが十分に入ることのできる岩の洞窟がありました。戦争の際には多くの人達の避難場所となりました。この一帯の最初の地名である「斎次巴衣」とは漢城百済の頃の大地の神と穀物の神に祭祀を行った岩という意味があります。