ソウル(瑞草区)

良才川(ヤンジェチョン)は元来、漢江に直接注ぐ1次支流でしたが漢江沿岸開発事業や周辺一帯の開発により直線化され、炭川(タンチョン)へ流入する流域変更及び流路変更が人為的に行われた河川です。


ソウル(鍾路区) , 仁寺洞・鍾路

アートリンクは作品の作り手と芸術品コレクター、大衆を繋げるための空間で、2003年3月にオープンしました。ここでは、on/off lineの全てのツールを通じて、現代美術と大衆との円満な疎通を試みています。    


ソウル(中区)

薬峴聖堂(ヤッキョンソンダン)は、長さ約32m、幅12m、396m²の小規模の聖堂の建築物です。1886年に宗教の自由が許されてからカトリックを信仰する人が増加したため、明洞本堂(明洞聖堂)から分離されたソウル市内で2番目の本堂です。1891年当時、明洞聖堂の主任神父であったドゥーセ神父が蛤洞に土地を用意し、副主教であったコスト神父が設計と施行監督を請負い、その翌年である1892年に薬峴聖堂が完成しました。この聖堂は、韓国で初めて建てられた西洋式の聖堂で、ゴシック的な要素が部分的に見られます。


ソウル(瑞草区)

観門寺はソウル特別市瑞草区に位置し首都圏天台法のゆりかごであり布教の中心道場として1993年に着工、約5年の工事を経て1998年10月に完成しました。敷地面積6,700坪、地下4階、地上7階建ての現代と伝統が織り交ぜられた仏教建築様式で作られています。建物の内部は最先端の設備が整えられ、国内外の様々な文化、学術、宗教儀式などをおこなうことができるようになっています。


ソウル(鍾路区) , 仁寺洞・鍾路

文化の通りである三清洞道には「世界装飾具博物館」があります。装飾具博物館は、詩人で随筆家であるイ・ガンウォン館長が約30年の間、60ヶ国から約3,000点を収集した装飾品の中で約1,000点を展示しています。価格が高く有名な宝石を置いてあるのではなく、さまざまな事情がある装飾具が暗めの博物館の中で輝きを出しています。5千万年の地球のきめがつまったホバク壁、地球の彼方の男女がつけていたブレスレットやアンクレット、16世紀のヨーロッパの人たちを誘惑したエドラード黄金ルーム、競合場であるネックレスルームなどがあり、どんなマジック会場でも越えられない「ビズとサンアルーム」と「近代装飾ルーム」もあります。


ソウル(鍾路区) , 仁寺洞・鍾路

熙政堂は正面11間、側面5間、単層八作瓦屋根の建物です。朝鮮時代後期に国王が日ごろから住んでいた場所です。昌徳宮の寝室である大造殿のすぐ前にあり、大造殿と同じ高さの基壇の上に建てられました。本来は昌徳宮の創建の時に建てられましたが1917年の火災で焼失してしまい、1920年に再建されて現在に至ります。度重なる消失と再建により建物の規模と用途は変わり続けました。正面9間、側面3間は居間となり、左右の韓国式の応接間と様式の応接間に分けられ、その周りに付け足された部屋は通路や小部屋として使用され、風呂や仕切り部屋などが造られました。熙政堂の内部の意匠は西欧的で室内の道具なども異国的、部屋の内外に取り付けられた電灯などは、大韓帝国の末期になってつけられたものでが、本来は宮殿の建物の規範によって建てられた建物です。    


ソウル(江西区) , ソウル西部

許家岩という天然の岩の洞窟一帯に造られた公園が亀岩公園です。この岩から陽川許氏の始祖である許宣文が生まれたとされています。亀岩公園は医聖と呼ばれる許浚の記念公園で、許浚が広津で退いてから、かの有名な東医宝鑑を執筆した場所でもあり、許家岩の洞窟がある場所です。亀岩公園にはオリンピック大路の建設によってできた湖があり、その周りを屏風のようにアパートが高く建ち並んでいます。この場所には許浚が患者を治療する慈愛に満ちている姿の銅像があります。一方、美しい湖ができる前までは、ここは漢江の下流を渡る孔岩の渡し場であり、その横には20人余りが十分に入ることのできる岩の洞窟がありました。戦争の際には多くの人達の避難場所となりました。この一帯の最初の地名である「斎次巴衣」とは漢城百済の頃の大地の神と穀物の神に祭祀を行った岩という意味があります。


ソウル(鍾路区)

史跡第465号「ソウル京橋荘(キョンギョジャン)」は、大韓民国臨時政府の活動空間であり、政治家・独立運動家の金九先生が逝去した歴史の現場です。ソウル市は韓国近現代史の歴史的現場を市民のための教育空間として活用するため京橋荘を復元し、臨時政府の歴史がひと目でわかるよう、内部に展示空間を設けて2013年から開放しています。 1949年に金九先生が亡くなり、その後長きにわたり大使館や病院施設として使われ、変わってしまった部分を撤去し、『朝鮮と建築』(1938年8月号)に収録されている京橋荘の図面を参考にして昔の姿が残っている部分は最大限原型を活かしながら復元しました。復元された京橋荘では、遺物・映像・情報検索コーナーといったさまざまなコンテンツを通じて大韓民国臨時政府が歩んできた道を知ることができます。  


ソウル(龍山区)

タンゴゲ殉教聖地は龍山電子商店街から歩いて5分のところにあります。己亥迫害の時である1839年12月27日・28日(旧暦)の2日間に、カトリック信者10人が処刑されたところです。この時処刑された信者の中に、幼い子どもを残した母親が3人いたため、ここを母の聖地と呼ぶようになりました。    


ソウル(中浪区)

忘憂山は1933年5月27日、京畿道の林野の一部を京城府が譲渡を受け、共同墓地として使用したのが始まりです。現在、ソウル市内にある唯一の共同墓地であり、総面積490,884坪の中に約28,500基の墳墓があります。1973年3月25日、受け入れる土地の余裕がなくなり埋葬が禁じられました。忘憂里公園には、韓国における子供運動の嚆矢である方定煥、民族代表33人の一人である呉世昌、韓龍雲、天然痘のワクチンの普及の先駆者であり医学者であると同時に国語学者の池錫永、臨時政府内務部書記を歴任した文明煊、東亜日報の主筆と新党の韓国民主党を作った張徳秀、制憲国会議員であり進歩党の党首であった曹奉岩等が安置されており、この七人の著名人の年譜碑が公園内の遊歩道が造成された時の97年2月に建てられました。また、98年2月に詩人の朴寅煥、文一平、徐丙浩、徐東日、吳哉泳、徐光朝、劉相奎、教育家の呉兢善と、八人の年譜碑が追加で設置され、歴史教育の場として活用されています。その他にも独立運動家の金貞奎、画家の李仲燮、小説家の桂鎔黙、 金末峰、 金利錫、 催鶴松、作曲家の蔡東蘚、ジャーナリストの 薛議植、政治家の李炳洪、歌手の車重楽、親韓日本人の浅川巧、朝鮮時代の純祖の長女である明温公主などが安置されていることが、最近明らかになりました。また、忘憂洞山57-1番地一帯の忘憂里公園内の循環道路5.2キロをアスファルトコンクリートで舗装した遊歩道があります。遊歩道の名称は公募により98年5月、「思索の道」に定められ、都市環境と調和した自然の観察路、総合案内板、東屋、湧水などが新しく設置され、区民の憩いの場であると同時に自然が満喫できる公園として多くの人々に愛されています。